★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

新聞記者

2019-07-11 23:47:32 | 映画


映画「新聞記者」を観てきた。

なかなか画面に緊張感があって良かったように思うが、考えてみると、この映画、――新聞記者としてちゃんと仕事しろ、つまり勇気を持って仕事しろ、官僚もおなじくちゃんとしろ、どっち向いて仕事やってるんだ、という小学生への説教みたいなことを言っている訳で、このようなテーマの映画が危険視されるようでは、我が国はまさに再度一二歳以下程度であると言われる羽目になるであろう。

ちゃんと仕事しろ、と言ったが、むろんこれはミスリーディングで、本当は仕事をさぼってもいいわけであるが、我々はサボることは許されておらず、嘘をつきながらの仕事に徴用されているわけである。

ドラマとしては、中途半端で、普通はこのあとの「結」が物語の山として弁証法的にやってくるのであるが、これはこの映画が、所謂「モリカケ」問題を題材にする限りこうなることはわかりきっている。完全な推測であるが、この問題は真相が仮に明らかになっても、恐ろしく人間的、思想的な深淵とは関係ない薄っぺらいものだろうと思うのである。我々は、うすうすこのくだらなさに気がついているからこそ、大騒ぎをして見せたのである。見逃して良いほどくだらないのではなく、人間の問題としては低レベルの事件という意味である。そこには、真の対立というものがない。映画では結構な真相(軍事的な悪事)が用意されていたが、現実はもっとくだらないはずであり、そのくだらなさを見出してからが「問題」の始まりである。

映画では、アメリカで教育を受けた女性記者が、父親が誤報事件で死んだという過去を背負って事件に挑む様を描いていた。対して内調につとめる男性がいる。彼は外務省時代に責任を被った上司の様子を知っていて――その上司が、今回の事件でも責任を負わされて自殺する。それでついに自分の仕事を裏切って情報をリークするのである。私見では、主人公たちに、こういう一見「分かりやすい」動機と背景を持たせることには反対である。むしろ、よかったと思うのは、――女性記者を韓国の女優がやり、不自然な日本語でよたよたと歩く彼女の様が迫力を与えていたことだ。今の我々の国では、勇気を持つことがある種の異物として表現されるしかないのである。それが単なる異物を越えた真実性を帯びるためには日本人ではだめだ。ネット上の噂では、最初、宮崎とか満島といった有名女優にオファーがいったらしい。が、わたくしは、かえって韓国の女優で良かったと思う。この迫力は、日本の女優では出なかったのではないか。

「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに


須磨の感慨であるが、源氏ほどの頭脳とセンスの人間が、こんな感じなのだ。源氏はそれで絵を描いたり冗談を言い合ったりするのである。むかしから、我々は追い詰められて思考が研ぎ澄まされることがないような習慣を打ち破れない。