Maroussia Gentet plays K. Szymanowski, L. Berio and H. Parra - Théâtre des Bouffes du Nord
三高氏はそもそも選挙演説のヘキ頭から、自分がジャンバルジャンであることを語っているのです。それ、メモをごらんなさい。よろしいですか。ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎。三高吉太郎でございます。よーく、この顔をごらん下さい。これが三高吉太郎であります。とね。つまり、三高吉太郎という顔のほかにも、誰かの顔であることを悲痛にも叫んでいるのですよ。その誰かとは、ジャンバルジャン。即ち、マドレーヌ市長の前身たるジャンバルジャン。つまり三高吉太郎氏の前身たる何者かですよ。それはたぶん懲役人かも知れません。ジャンバルジャンのように、脱獄者かも知れません。そして、たぶん、そのときの相棒が江村という人相のわるい男なのでしょう」
「なんのために、叫ぶのさ」
坂口安吾というのは、こういう小説を書いてしまうときがあるひとで、なんだかよくわかんない人である。わたくしは、安吾の視野にないのは、例えば松下政経塾に行ってしまうような連中であるような気がするが、そりゃそうだ。安吾のみたいのはもっと遠大な何かなので……。で、懲役人で立候補と言えば、たとえばファシストの外山氏とかであるが、案外彼が都議会?のときにやらかしたシャープな政見放送の悪いパロディのような滅茶苦茶なものを放送してしまう者が、れいわ新撰組のようなわりと勢いがあって上品な連中とともに存在し始めたのが今回の特徴のような気がした。中年より上の世代は、下品な滅茶苦茶な連中を嫌うであろうが、これも大衆の乱世の振る舞いの一つで、安倍首相ですら、そういうものに感染している可能性がある。いまは、旧社会党を裏切ったような卑怯者と、昔ながらの自民党を裏切った卑怯者との戦いで、まあどうしようもない。わたくしは、リベラルたちがマイノリティの擁護をことさらに唱えたりすることにあまり共感できない部分もあるが、それは一方で、れいわ新撰組の一部にみられたように自分自身を語る人が出てくることに対する反応ではあり、もう政治を支配するパッションが変わりつつあることの予感があるのである。政治は、やっぱり、本気であるやつだけが何かを支配できる、良くも悪くも。誰も本気でやってない環境では、そもそも民主主義以前に政治の次元が存在しないのであろう。
ただ、その本気を裏で支えまともな行動に牽制するのは、柄谷行人ではないが、文学者や思想家の「建築への意志」みたいなものである。それがないと、その本気はテロになってしまうかもしれない。
三高氏はそもそも選挙演説のヘキ頭から、自分がジャンバルジャンであることを語っているのです。それ、メモをごらんなさい。よろしいですか。ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎。三高吉太郎でございます。よーく、この顔をごらん下さい。これが三高吉太郎であります。とね。つまり、三高吉太郎という顔のほかにも、誰かの顔であることを悲痛にも叫んでいるのですよ。その誰かとは、ジャンバルジャン。即ち、マドレーヌ市長の前身たるジャンバルジャン。つまり三高吉太郎氏の前身たる何者かですよ。それはたぶん懲役人かも知れません。ジャンバルジャンのように、脱獄者かも知れません。そして、たぶん、そのときの相棒が江村という人相のわるい男なのでしょう」
「なんのために、叫ぶのさ」
――坂口安吾「選挙殺人事件」
坂口安吾というのは、こういう小説を書いてしまうときがあるひとで、なんだかよくわかんない人である。わたくしは、安吾の視野にないのは、例えば松下政経塾に行ってしまうような連中であるような気がするが、そりゃそうだ。安吾のみたいのはもっと遠大な何かなので……。で、懲役人で立候補と言えば、たとえばファシストの外山氏とかであるが、案外彼が都議会?のときにやらかしたシャープな政見放送の悪いパロディのような滅茶苦茶なものを放送してしまう者が、れいわ新撰組のようなわりと勢いがあって上品な連中とともに存在し始めたのが今回の特徴のような気がした。中年より上の世代は、下品な滅茶苦茶な連中を嫌うであろうが、これも大衆の乱世の振る舞いの一つで、安倍首相ですら、そういうものに感染している可能性がある。いまは、旧社会党を裏切ったような卑怯者と、昔ながらの自民党を裏切った卑怯者との戦いで、まあどうしようもない。わたくしは、リベラルたちがマイノリティの擁護をことさらに唱えたりすることにあまり共感できない部分もあるが、それは一方で、れいわ新撰組の一部にみられたように自分自身を語る人が出てくることに対する反応ではあり、もう政治を支配するパッションが変わりつつあることの予感があるのである。政治は、やっぱり、本気であるやつだけが何かを支配できる、良くも悪くも。誰も本気でやってない環境では、そもそも民主主義以前に政治の次元が存在しないのであろう。
ただ、その本気を裏で支えまともな行動に牽制するのは、柄谷行人ではないが、文学者や思想家の「建築への意志」みたいなものである。それがないと、その本気はテロになってしまうかもしれない。