★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

社会的勢力、いとこめきたり

2019-07-20 23:00:06 | 文学


浅き名を言ひ流しける河口はいかが漏らしし関の荒垣

とのたまふさま、いとこめきたり。

漏りにける岫田の関を河口の浅きにのみはおほせざらなむ

年月の積もりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず


「反社会的勢力」って何だろう……と考えながら、「藤裏葉」を読む。ウィキペディアによると、反社会的勢力とは、「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」だそうである。問題は社会ではなく経済なのであった。この場面では、弁の少将がうたった催馬楽「葦垣」(男が女を連れ出そうとしたが誰かに告げ口されて失敗する、みたいな内容)に導かれて、夕霧と雲居雁は贈答しあうが、その内容よりも、雲居雁の「いとこめきたり」という様子、夕霧の「年月の積もりも、いとわりなくて悩ましきに、ものおぼえず」という体たらくが場面を仕切っている。歌よりも人物の様子が音楽のように流れている。資本主義は、その外部を必要とし、――息もつかせず、資本主義の外部を取りこんでゆくのであるが、暴力団やヤクザも例に漏れず、むしろ資本主義社会の中で機能するようになってきたのである。そういえば、ヤクザなひとたちの発生もそもそも資本主義と関係があるという説があるけれども、そうかもしれない。資本主義によって生まれたものが外部に成り同時に内部に取り込まれる。だいたい商売というのは、もともと不公平な関係を隠蔽する側面が本質的にあるので、決まりをつくりながら無理矢理線引きをつくっている訳であろう。言うまでもないが、商売が大げさな展開をするためには、契約書なんかがない労働を大量にかかえる必要があるのである。ヤクザが大きな勢力となるときにそういうことが起こっているのは、多くの証言があるが、国家や会社でも本質的に似たようなことが起こっている。

夕霧と雲居雁が結婚できたのは、彼らが恋していたからではない。父親の源氏と頭中将があれこれ考えて演出したからだ。

明かし果てでぞ出でたまふ。 ねくたれの御朝顔、見るかひありかし

夕霧の美しい寝起きの顔は、いまや権力の頂点に立とうとする源氏に支えられている。今日は、芸人二人が契約している会社のことをあれこれ言う場面があった。考えてみると、源氏たちは自分で歌を詠んだり楽器を演奏したりして自分たちを喜ばす手段をもっている。そもそも、娯楽を金で買ってどうにかしようとする我々の世の中がおかしいのかもしれない。金のために幇間じみたことをしなければならないのは、そこそこ有名な芸人が反社会的勢力に対してするだけではなく、会社ぐるみにでもっとでかい権力に対してやっていたことであり、――我々だって似たような幇間になって立ち回っているではないか。

問題は、「暴力、威力と詐欺的手法」を使う相手に対する「恐怖」である。これは我々の社会の外部ではなくて、我々の行動の源泉である。

無礼と不逞

2019-07-19 23:52:09 | 文学


坂口安吾の文才を感じさせる文章に、「篠笹の陰の顔」というのがある。昭和15年あたりに書かれていて、アテネフランセにともに通っていた、狂死した友人(高木)について書いたものである。左翼運動が盛んだったので、高木と安吾は屡々尋問されたらしい、そのときの様子がこう書かれている。

高木は何事も私にまかすといふ風があるのに、かういふ時だけは私を抑へて頻りに答弁するのである。その理由は私の答弁が無礼そのもので警官の反感をかひやすいからだといふのであるが、高木は小柄で色白のひよわな貴公子の風がありながら、音声が太く低くて、開き直つて喋る時は落着払つてゐて洵に不逞の感を与へる。代り栄えがしないのである。

ここで「無礼」とか「不逞の感」と言われているのは、発言の内容とかではなくて、人の発する何者かであって、――今日、韓国の大使を怒鳴りつけて「無礼だ」とか何とか言っていた外務大臣とは大きく違う。外務大臣は、韓国の主張自体が無礼だと言っているである。しかし、内容以前に無礼で不逞の輩であることを感じさせる人間はおり、我々の人間関係というのは、そんな内容以前的なことでほとんど決まっている。安吾は、狂気とかケモノとか言ってその果ての部分を示唆しようとしていて、なぜならそれは常識的には所謂「人間性」という枠からは外れているからである。しかし我々自体がそもそも我々の認識よりも大きいので外れているようにみえるだけだ。それが我々の人間どうしのあり方を決めている。

日本浪曼派なんかは、戦争やって日本が滅んでも、文化が語り継がれればいいと思っていたところがあると言う人はいる。それにしても滅びる覚悟はあまり感じられないが――。考えてみると、ギリシャもローマもいまは文化しか残っていないので、そんな滅び方もありうるとは思うのであるが、人間の滅び方は「平家物語」なんかが描くよりももっと惨めで嫌らしいものであろう。痕跡は残るのかもしれないのだが、人間が滅びるときには文化も一緒に滅びるに違いない。

最近の日本は人間の滅び方よりも文化の滅び方の方が速い。昨日の事件は、そんなことを象徴してしまっているようで恐ろしい。

発狂といつても日常の理性がなくなるだけで、突きつめた生き方の世界は続いてゐる。むしろ鋭くそれのみ冴えてゐるのである。一見支離滅裂な喚きでも、真意の通じる陰謀政治家が発狂してゐないと断言したのは当然で、ほかの家族は発狂と信じてゐた。これも亦自然である。

高木が狂死するとき、父親の陰謀政治家だけは息子の精神のあり方を直感できた。狂っていないと断言したのである。いまの政治家にはこういう鋭さもなくなっている。

身を心にまかせず

2019-07-18 23:49:41 | 文学


いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。


「あさきゆめみし」では、上の部分が省かれていた。本文の読者としては「おいっ」と思うところである。もっとも、大人は説教をしなければならぬときがあるのであった。夕霧はそのかいもあって、一途に唯一人の妻を……とは残念ながらならなかったが――夕霧は雲居の雁と結婚できてよかった。この小さな恋の物語は、物語に於いては、「こんなところで物語が上手く行き始めるわけはないわな」と思わせる効果があり、案の定、光源氏の人生は因果応報的寝取られ事件、臨終の場面省略(←違うか)といった悲劇に見舞われて行くのであった。

それにしても、ときどき本当に幼なじみと結婚してしまう人がいるが、ほぼお互いの人生の区別がつかないのではあるまいか。そうでなくても、我々はつきあいがあった人の人生をある程度は奪い取って来ているみたいで、ときどきそのあるはずのない記憶みたいなものにうなされる人もいると思うが、――光源氏なんかその点、よくも精神が分解しないものである。やはり、お母さんとの事情で、巨大なブラックホールみたいなものをかかえていて、そこにいろんな人生を投げ込んでいるのであろうか。わたくしは、いくら一夫多妻でもそんなうまくはいかないのではないかと思うのである。

ところで、今日は、京都アニメーションで放火による大量殺人事件があった。大事件である。問題は、こういう事件に対する意味づけである。昭和の時も平成の最初あたりの大事件も、意味づけを我々は誤った。上の多くの妻との関係と同じで、我々は事件に人生をある程度強く奪われるので、奪いかえすこちらの認識によって妙な意味付けになってしまったりするのであり、これはある程度不可避であるからである。意味づけは長く時間をかけてするものだということを自覚することが大切であるように思う。

情況

2019-07-17 23:19:52 | 思想


久しぶりに『情況』を買って読んでみた。『大失敗』の人たちとか山本太郎とか外山恒一とか安彦良和がでてたので……。そうか、いまの「左翼」というのはこういう布陣なのか……。

外山恒一がネチャーエフ?か何かを引いて、「革命家は神様から飼育係を任じられている」と言っていたが、飼育係とはファシストとか革命家よりも「先生」なのではなかろうか。わたくしは革命を論ずる者は、在野にいるふりをしないことが重要だと思う。わたくしはほとんど公務員みたいなポジションの先生なのだがそれを否定してもしょうがない。むしろ、我々は組織のベルトコンベアーを動かしている労働者であり、そういう者にしか「飼育」はできないと考えるのである。(自己弁護ですけれどね……)前線は工場の外にあるのか?

安彦良和が社青同解放派にシンパシーを持っていたと言っていた。それは「あっ」と思いました……

大きい犬とか

2019-07-15 19:54:58 | 漫画など


スケラッコ氏の『大きい犬』はなかなかよかった。昨日の話(動物愛護精神の危険性)ではないが、動物は大きい必要があるのではないかと思う。特に犬は、近代の諸表現によって、人間のような意味に塗れてしまっており、その意味を振る払うためには巨大化でもしてもらわなくてはならなかった。

大仏がでかいのとはちょっと違う。この漫画では犬はそれこそ住宅ぐらいの大きさがあるわけで、これは犬ではなく「居場所」なのである。この犬は何百年も生きているのかもしれない。というわけで、この本ではおおきく時間と距離を越えて人が移動することのお話が続くのであった。――若い作者かどうかは分からないが、人間、高齢化も何もかも何とかしてしまうのであろう、と思わせる話であった。

その大きな犬をみていると、なぜか故郷のことを思い出した。わたくしにとっては山が故郷なので、その犬は山にみえたのかもしれない。

「七福神再び」という話も結構面白くて、父親が実は恵比寿だった話で、――痴呆かとおもいきやそうではなく、さいごに他の七福神たちと旅立って行ってしまった。親というものはそんなものかもしれない、と思わせる話である。最近は、死者を「仏さん」とはいわなくなった。「天国で見守る」みたいな感じになっていて、あまりにも偽善的な……。靖国に帰る人たちもそうだが、そこにはイメージが決定的に欠けている。帰っても死者は救われまい。(その意味で、三島由紀夫の「英霊の声」のアイロニカルなやりかたはすごかった……)恵比寿さんのイメージで少なくとも生者は救われる。

この前読んだ、「ホリック」という力作は、異界もの?なのになんとなく現世に拘りすぎていてるように思われた。現世では魔法が必要になり、そうすると理屈がいるのである。そういう理屈は、我々の苦しみそのものであるから、現実離れを起こした感じがしないのであろう。

付記)考えてみると、英霊の例はちょっと違った。例えば戦争で死ぬことがなぜ悲惨かといえば、決して成仏とか昇天とかのイメージで救われないというのがあるわね……。ばらばらな肉塊になったり、飢餓や疫病で土塊にまみれてはなかなか救われまい。世界大戦は宗教も破壊したといえるのではなかろうか。

政党・愛護・タロウ

2019-07-14 23:24:53 | 思想


今更ながら思ったのであるが、戦後の共産党の変節も重要な問題なのであろうが、社会党の変節?をちゃんと分析することの方が、「勤労大衆」にとっては重要なことなのではなかろうか。だいたい、はじめから自民党と共産党の間で迷走していた社会党の方が自らに近いではないか。いま、野党の大半が「リベラル」といった妙なレッテルをつけられており、その際、共産党的なるものをシンボル操作のようなかたちで使用しながらその欺瞞を暴くことで快感を得ているような人々は多いわけであるが、それは実質社会党的なるものへの批判であるように思われる。ほとんどの人々にとって、共産党に自分を見出すのは難しいはずである。

1949年あたりの森戸・稲村論争を読んでいてそんなことを思った。

しかし、それにしても、共産党を含めて、「みんなが笑顔になれる」とか下手すると動物愛護にまで行っている人が散見されるのであるが、――それは、ほとんどナチスなのでは……、とも思うのである。ナチスと健康志向、動物愛護などの関係は研究で屡々指摘されているけれども、こいつはかなり本質的な問題だと思う。

このまえ「ウルトラマンタロウ」の一部を観たのであるが、蝉とか毛虫とかが巨大化して町を破壊するので、タロウが案の定飛び出して行くのであるが、昆虫に夢中な子ども達は、「タロウ頑張れー」「いや虫は殺さないデー」「タロウの馬鹿野郎」という感じで、まったく愛護精神が欠如している。昆虫の巨大化による破壊も、タロウの怪獣(虫)との格闘も面白そうだからやってるだけで、別に愛護しようとおもっているのではない。だからといって、虐めようとするのでもない。こんな具合がちょうど良かったのかもしれない。

動物愛護というのは、むろんナルシシズムの問題なので、――動物愛護と虐待とか殺処分とかは一続きのナルシスティックな精神の動きなのである。わたくしは、「みんなが笑顔」はファシズムへの傾斜があり得ると思う。「みんな」に堪えられずに、「笑顔のみんな」の強要に革命的に移行するのがファシズムだろうと思うからである。笑顔でなくても別にいいじゃねえか。

追記)「ウルトラマンタロウ」というのは、昔は馬鹿にしていた。「帰ってきたウルトラマン」とか「ウルトラマンエース」とかが、怪獣の造形の仕上げがやや甘くなっていくなかで「ウルトラセブン」風の陰鬱なドラマをやろうとして、ちょっと苦しい感じになっていたのを、おもいきってコメディタッチにしているところが成功の原因だったように思えました。音楽、役者、怪獣、脚本すべてが、「子どもの怪獣ごっこ」というレベルにきちんと揃っている。特に音楽がいい。


さと沃かけたまふ

2019-07-13 23:54:46 | 文学


らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ

髭黒さんは玉鬘を妻に出来た。しかしもう既に北の方がいて、子どももいる。うきうきと玉鬘の所におしゃれをしていこうとしていると、北の方に灰を投げられた。男前にした髭黒さん、そう上手くいかずに灰だらけに、と昔の読者もわらったのかもしれないが、――正直なところ、この場面もふくめて「源氏物語」にはどう反応していいのかわからん場面が多い。さすがである。それにくらべて、最近は、表現の意味を表現者が全く反対の意味にしていいみたいな風潮がある。「源氏物語」に限らず、だいたい世の中、どう反応してしいいのか分からんことばかりであるのだが、「これはこういう意味」とか決めたがるすっとこどっこいが威張り腐っている。

「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。

女房たちは北の方の剣幕を「御もののけ」のせいにしているが、いまなら何かアスペルガーだ鬱だなのどと言うのと一緒である。みんな北の方の感情の大きさから遁走したいのである。感情の世界は広大であるのだが、我々はそれをいつも狭く小さく見積もろうとする。

わたくしは、最近の政治やメディアにある現象は結局、そういうことのように思えるのである。第二次世界大戦のときに左翼が大衆の意識を読み違えていたことはよく批判されてきたけれども、その言い方にならえば、左翼でなくても多くの人々が米国や中国やソ連に対して読み違えていた。しかし、――本当は読み違えたのではなく、狭く小さく見積もりすぎたのだと思う。

感情の内実を数えあげる手間を省く論者すべてに戦争責任や戦後責任はあるとみなすべきである。

憂きことを思ひ騒げばさまざまに くゆる煙ぞいとど立ちそふ


髭黒さんは本当に「さまざま」思っていたのかどうか、わたくしは疑問である。

加速と加齢

2019-07-12 22:53:53 | 音楽


吉琛佳氏の論文を読みながら、サテライトセミナーとかの準備をする。

最近、ゲルギエフとかクルレンツィスとかが、ショスタコービチの7番の例のボレロのパロディの所で、これ見よがしに加速するのが怖い。ここの部分は本当に加速して表現するべきところであろうか。ファシストの行進、あるいはソ連軍の行進の突撃と破壊の場面とも言われるこの場面であるが、――破壊は本当に加速が必要であろうか。フルトベングラーの四〇年代の加速はすごいが、彼のように、ベートーベンでもシューベルトでもブルックナーでもシュトラウスでも最後は加速するのは潔かった。自分の曲ではあんまり加速していないのはどうしてであろう……

ショスタコービチも、サモスード?か誰かと演奏したピアノ協奏曲第一番なんかではすごい加速をしてて、オーケストラもついてこれず、ときどき自分の指もついてこれなかった。

「僕は十分速くあったろうか」と述べたのは81年の浅田彰であるが、氏もおそらく速くありすぎて自分の指がついて行かないタイプである。こういう人は内面的なので決してトランプみたいにはならない。

ミチコ・カクタニの「真実の終わり」で紹介されていたが、トランプの参謀だったバノンは自分がレーニン主義者であると語ったことがあるという。白井総氏がレーニンで学位をとり、古本屋でわたくしがレーニン全集を買い込んだ頃、アメリカでもそんな奴がいて、破壊欲に燃えて機会を窺っていたのだ。

わたくしは、レーニン全集を読みかけたままどちらかというと、寝転んでサボっていたので、まだまだ加速しない。代わりに加齢が来て、ますます遅くなっている気がしてならない。

新聞記者

2019-07-11 23:47:32 | 映画


映画「新聞記者」を観てきた。

なかなか画面に緊張感があって良かったように思うが、考えてみると、この映画、――新聞記者としてちゃんと仕事しろ、つまり勇気を持って仕事しろ、官僚もおなじくちゃんとしろ、どっち向いて仕事やってるんだ、という小学生への説教みたいなことを言っている訳で、このようなテーマの映画が危険視されるようでは、我が国はまさに再度一二歳以下程度であると言われる羽目になるであろう。

ちゃんと仕事しろ、と言ったが、むろんこれはミスリーディングで、本当は仕事をさぼってもいいわけであるが、我々はサボることは許されておらず、嘘をつきながらの仕事に徴用されているわけである。

ドラマとしては、中途半端で、普通はこのあとの「結」が物語の山として弁証法的にやってくるのであるが、これはこの映画が、所謂「モリカケ」問題を題材にする限りこうなることはわかりきっている。完全な推測であるが、この問題は真相が仮に明らかになっても、恐ろしく人間的、思想的な深淵とは関係ない薄っぺらいものだろうと思うのである。我々は、うすうすこのくだらなさに気がついているからこそ、大騒ぎをして見せたのである。見逃して良いほどくだらないのではなく、人間の問題としては低レベルの事件という意味である。そこには、真の対立というものがない。映画では結構な真相(軍事的な悪事)が用意されていたが、現実はもっとくだらないはずであり、そのくだらなさを見出してからが「問題」の始まりである。

映画では、アメリカで教育を受けた女性記者が、父親が誤報事件で死んだという過去を背負って事件に挑む様を描いていた。対して内調につとめる男性がいる。彼は外務省時代に責任を被った上司の様子を知っていて――その上司が、今回の事件でも責任を負わされて自殺する。それでついに自分の仕事を裏切って情報をリークするのである。私見では、主人公たちに、こういう一見「分かりやすい」動機と背景を持たせることには反対である。むしろ、よかったと思うのは、――女性記者を韓国の女優がやり、不自然な日本語でよたよたと歩く彼女の様が迫力を与えていたことだ。今の我々の国では、勇気を持つことがある種の異物として表現されるしかないのである。それが単なる異物を越えた真実性を帯びるためには日本人ではだめだ。ネット上の噂では、最初、宮崎とか満島といった有名女優にオファーがいったらしい。が、わたくしは、かえって韓国の女優で良かったと思う。この迫力は、日本の女優では出なかったのではないか。

「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに


須磨の感慨であるが、源氏ほどの頭脳とセンスの人間が、こんな感じなのだ。源氏はそれで絵を描いたり冗談を言い合ったりするのである。むかしから、我々は追い詰められて思考が研ぎ澄まされることがないような習慣を打ち破れない。

人間の屑

2019-07-10 23:00:31 | 文学


真壁  それがさ、あの男になら、瞞されてもそんなに腹が立たないよ。どこか愉快なところがある。自分さへ安全なら、大いに声援でもしたいつていふやうなところがある。
金田  冗談ぢやない。
真壁  僕は、自分にもさういふところがあるからかも知れないが、快活な悪事といふものには、そんなに反感が起らないんだ。なんにも出来ないで、不平ばかり並べてる奴は、人間の屑だと思つてる。


――岸田国士「牛山ホテル」


思うに、「快活な悪事」に反感が起こらないやつというのは「人間の屑」だと思う。

あらはなることありなむ

2019-07-09 23:55:34 | 文学


いとまがまがしき筋にも思ひ寄りたまひけるかな。いたり深き御心ならひならむかし。今おのづから、いづ方につけても、あらはなることありなむ。 思ひ隈なしや

夕霧は父親に「玉鬘に普通の宮仕えをさせておいて、自分のものにしよう企むとはさすが」とかある人(内大臣)が言ってましたと告げる。源氏はギクっとなるのだが、上のように「今おのづから、いづ方につけても、あらはなることありなむ」(今におのずからどちらにしても真実があらわれるよ)とか、弁証法かっみたいなことを言う。

あらはなることありなむ


おそろしいことである。源氏の人生を要約するとこうなるのではないだろうか。というか、源氏の思考が不可解なのは、内大臣が源氏の企みに気づかないと一瞬でも思ったことである。こんなのはバレるに決まっている。というか既にバレている。

「げに、宮仕への筋にて、けざやかなるまじく紛れたるおぼえを、 かしこくも思ひ寄りたまひけるかな」と、むくつけく思さる。


偉くなると、既にバレていることでもバレていない体で周りを威圧することが出来るのだ。裸の王様である。大概、子どもが言う前にみんな気づいているから、あからさまに言い放った子どもは常にどこかに葬られている。

しかしこんな情景はありふれているのでむしろ隠れてしまうものがでてきてしまうのであろう。

高山の真の柱は唐人や これが大一神の立服(『おふでさき』)

もっとも卑俗な欲望の対象とか

2019-07-07 23:04:22 | 思想


宮本百合子が「共産党とモラル」という文章の中で、

三・一五の顛落者が金と女にルーズであったことを忘れてはならない。それからのちあらわれたスパイも金と女にきたなかった。金と女というものは現代の社会でもっとも卑俗な欲望の対象であり、また社会矛盾の表現である。

と述べている。

どうもわたくしなんかは、スパイなどは金と女に汚くなくてむしろ糞真面目であったと思い込んでいた。思い込みというのは恐ろしいものである。スパイというのは、デューク東郷よりもルパン三世みたいな奴らしいのだ。

それにしても、悪口の研究というのはあるのであろうか。日本の権力と、反権力と大衆の関係を考察するのに、重大な論点のように思われるのであるが……。

綱領雑感

2019-07-06 23:14:24 | 思想
Frédéric Chopin: Piano Concerto No. 1 e-minor (Olga Scheps live)


社会党の55年の時点の綱領を初めて読んだ。こういうのも読めば発見があるね……。けっこう思い込んでいたことがあった。

46年6月の共産党による「憲法草案」も読んだ。期待していたのは前文であるが、わたくしが想像していたものより普通の文章であった。私見であるが、文末を少し変えるだけでもう少し戦闘的になるような気がする。印象であるが、今の日本国憲法の前文の文体の方がパンチがあるのだ。あと、なんとなくであるが、天皇制や地主制、家父長制の廃止に関して、これから頑張ってやって行きますよみたいな、共産党の目標みたいな感じになっており、――それ自体はかまわないと思うのであるが、そうした遺制が既にないような前提に立ってつくってもかまわなかったような気がする……。つまり、共産党の案は、憲法というより、共産党の「綱領」じみているのである。と思ったが、マルクスがいったみたく?、戦い自体が目標みたいな感じで行こうと言うことであろうか。確かに、今の憲法は、もうすでに人権も何もかも所与ですみたいな誤解を生みかねない。

そういえば、共産党の案では、天皇制は廃止なので天皇からの叙勲が廃止されているのは当然であるが、勲章そのものはあげることになっている……。わたくしは、叙勲そのものをやめてしまった方がいいと思う。

それにしても、共産党が天皇制をさしあたり容認するが如き言動を最近とっているのは、少数のコアな支持者を逃がしたと思う。これは長期的に見てかなり大きいことだ。志位氏は「(天皇制の)将来の存廃は、国民の総意で解決されるべきだ」(https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190607/pol1906070007-n2.html)と述べていて、そりゃまあそうなんだろうけれども、問題は、共産党がマイノリティの意見の味方をしないつもりみたいにみえるので、これはかなりイメージダウンじゃないだろうか。いじめられっこの味方は誰かがやらねばならんのである。

日本資本主義の本質とか大衆の実態とかなんとかは、山本七平とか吉本隆明みたいな人たちに任せればいいんじゃないだろうか。前衛的な人たちは、いつも政治と経済をどっちも一緒にごちゃ混ぜにやろうとする癖がある。問題は恒に難しいので、中途半端に間違えつづける羽目になるが、そうするといつか緊張感が切れて、また架空の大衆に「寄り添う」ことになりそうである。