「『この鏡を、こなたにうつれるかげを見よ。これ見れば、あはれにかなしきぞ』とて、さめざめと泣き給ふを見れば、ふしまろび、泣きなげきたるかげうつれり。『このかげを見れば、いみじうかなしな。これ見よ』とて、いま片つかたにうつれるかげを見せたまへば、御簾どもあおやかに、木帳おしいでたる下より、いろいろの衣こぼれいで、梅、桜さきたるに、うぐひす木伝ひなきたるを見せて、『これを見るはうれしな』と、のたまふとなむ見えし」
と語るなり。いかに見えけるぞ、とだに耳もとめず。
いまも、夢というのは結構実現したりするものである。つい最近、神式のお葬式の写真をみたが、ちゃんと鏡がおいてあるのであった。いまだって、鏡には神秘性がつきまとっているので、少し覗いたりするのは恐いもんである。柄谷氏みたいに、鏡には自分が映っても他者が映っているとは思えないが、自分の恐ろしさを知るのはやはり鏡である。若者が自撮り写真をしょっちゅう撮っているのは、何か不安だからではなかろうか。
わたくしは肖像画というのはいまだに転形期を彩る哲学的なテーマだと思う。
ある折は、水をのんだコツプにうつる生々した愉快な顏――切子の壺に種々な角度からうつるのも面白い。さし出された給仕盆にうつることもあり、水面にうつして妙な顏をして見ることもある。食べものを運ぶホークに、二本の筋のある斷片的な鼻と口とがうつり、齒が光ることがある。それより面白いのは小さな匙に、透明な液體とともに掬ひあげた小人の自分の顏。どれもあんまり美しいものではない。しかし、ものを書きつづけた夜の顏が、朝の光りに、机や窓硝子にうつつた時のあじきなさは、シヨーウインドに突然くたびれた全身を映照しだされたをりの物恥と匹敵する。
私もよい鏡を持ちたいと思つた事もあつたが、それは趣味の時もあり、心の守りといふふうに思つたをりもある。今日の考へでは、脂粉のいらぬ年齡になつても、正しく恥ない日日を送るために入用だと思つてゐる。我心の正邪を、はつきりと、心の窓の眼から覗くことが出來るのは、凡人には鏡が手近だから――
――長谷川時雨「鏡二題」
長谷川は「我が心の正邪」と言っているけれども、邪はわかるが正が分からん……。古典世界の娘がみたのは悲しみの姿と喜びの姿であった。不幸と幸福と言ってもよいかもしれない。しかし、近代の正邪とは何か?