
目に近く移れば変はる世の中を行く末遠く頼みけるかな
朱雀院の娘・女三の宮が源氏に降嫁した。そのときの紫の上の歌。目に近く移りかわってしまう自分たちの仲は誰の目にも明らかであり、別に離婚するわけではないのだが、――だから、行く末はまだまだあるのであるが、末永くとあてにしていた時間はもう帰ってこない。目の前を流れる時間と、希望としての時間の明かな断絶を作りだしている、目の前の初老の男と、彼の着物に香を焚く女。男が
命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき世の常ならぬ仲の契りを
とごまかしてももう遅い。
「いとかたはらいたきわざかな」
「行為というファウスト的な世界感情は浅薄化して労働の哲学となる。」と言ったのは、シュペングラーであるが、光源氏は朱雀院から与えられた労働をしているような状態である。感情は失われた。
今日は採点の合間に、1935年の『文化の擁護』会議の翻訳を少しめくってみたが、なるほど、文化はもう破壊され擁護するしかないことを、ヨーロッパの作家たちは知っていたのだな、という感じがした。