いとうつくしげに、雛のやうなる御ありさまを、夢の心地して見たてまつるにも、涙のみとどまらぬは、一つものとぞ見えざりける。年ごろよろづに嘆き沈み、さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしきにつけて、まことに住吉の神もおろかならず思ひ知らる。
考えてみると、こういうところが、源氏物語より平家物語の方が、という人がいる原因かもしれない。結局は、源氏が権力の頂点に上り詰める直前に、紫の上と明石の君の対面があり、紫の上の美と身分上の上位が明石の君によって確認され、明石の君の涙の意味まで変えてしまう。住吉の神まででてきてそれを権威づける。
これに比べて、平家の方は、なんだかよく分からんが、alea iacta est(賽は投げられた)みたいな感情ばかりがあって、それゆえまっさかさまに転落して行く人物たちも多いが、学んだことも多いはずであった。大概学ぶ前に死んでいる所が残念だ。だから戦争よりも民主主義がいいというわけである。やはり左翼運動が戦争に向かったのはよくなかったのではないか。
勝ったままでいるような人間が多すぎるのは、乱世の混沌の特徴であるとはいえ、ファシズム的沸騰を通過しないと反省しないようではどうも問題だと思う。福本和夫みたいなやり方はなんだかよく分からんが反発を喰う。必要であると分かっていながら、それがいやであるんなら、学ぶカリスマを理想型とするしかあるまい。光源氏みたいな最初からすごいものを想定すると、安倍やレーニンみたいなものを夢想してしまうことがあるかもしれない。
確かに、「さまざま憂き身と思ひ屈しつる命も延べまほしう、はればれしき……」などという感慨は、自分のなかからひねり出そうとしても難しい。下手すると「勝利だよ勝利だよ」と自らに呟きながら、自らについて浪花節を歌いだしかねない。こういう人たちは案外多く、積極的なファシストではないが、やっていることは結局弱い者いじめみたいな――ことになりかねない。負けることをいやがっているのだからしょうがない。勉強が必要なのは、勉強すれば負け続けなければならないからだ。