やっと公開講座が終わったので一息ついたら、明日はサテライトセミナーで出張である。
西田幾多郎の長女(上田彌生)が書いた「あの頃の父」を読んでみると、「善の研究」が筆で書かれ和綴じされた冊子が次々に増えていった様子が追憶されている。考えてみると、西田の文章は、我々が普段やっているよりもゆっくり読むべきものなのかもしれない。「善の研究」の最後の章で、「対象なき意志」 Wille ohne Gegenstand というのがでてくるけれども、これを西田は「一種崇高にして不可思議の感に打たれる」と言っているのをみて若い私は馬鹿にしていたが、それが「深く自己の意識の奥底を反省してみる時」に生じるという意味を読み落としていた。意識の奥底があるかは分からんが、反省は行為だから虚無ではなくていろいろなものが去来しているのである。それがゆっくりと意識の中を西田の心を責めながらながれてゆく。
矛盾的自己同一とかいうものも、そのブルックナーのアダージョ100曲分みたいな西田の記述全体がそうなのであって、考えることが人生と化したような時空間を考えて読む必要があるのであろう。いまみたいに、くるりんくるりんと改善マシンが廻転したり、改革が加速したりする人の澱んだ思考に比べて本質的に頭がよい。
苦悩するにしてもそれが澱んでいる世の中というのはつまらない。
今日の公開講座は、ちょっと柄谷行人の「建築への意志」にひっぱられた話になってしまった。喋っていて講師がそのおしゃべりの中で何かを発見することがない講座というのはやや失敗である。講義は思索でなければならない、と思う。「対象なき意志」がそこには必要である。