Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

はてさて‥

2011年12月16日 21時01分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日、塚本邦雄の「百句燦燦」をめくっていたらこんな俳句と評にであった。引用の句は「昼寝の後の不可思議の刻神父を訪ふ(中村草田男)」。そしてその評は「‥昼寝自体不可思議な時間によつて充たされてゐる。あるいは面妖な時間の欠落と言つてよい。夜の眠りが休息すなはち死へのおもむろな接近であり、おだやかな溶明、溶暗の儀式を伴ふのに較べるなら、昼寝は一瞬にして空白の罠に陥ち、突如現実の世界に引戻される趣がある。白昼の逢魔が刻、その時間は短ければ短いほど不吉な陰翳を伴ひ、たとへば坐睡の一、二分間に異次元を彷徨し醒めて烈しい虚脱を覚えることもある。」
 塚本邦雄独特ともいえる。仮定に仮定を有無をいわさず積み上げていつの間にか思いもかけぬ断定にいたる文脈ではなく、肯いやすい実感を積み上げて見せてくれているようではある。それほどこの句に対する思い入れが強いのかもしれない、と感じた。
 死の直前洗礼を受けたキリスト者、草田男にとって昼寝の後のこの不可思議な時間に「神の存在」を、「聖書」を実感したのかもしれない。あるいはそのような不可思議な体験をしたのかもしれない。草田男にとっては信ずることのない私たちからはうかがい知れない、当然のことが「神父を訪ふ」だったのかもしれない。これらの「かもしれない」のはてに私たちは何を感じたらよいのか。迷うばかりである。しかしこの迷いを含めて句は鑑賞できる、納得できる。
 はてさて、この塚本邦雄の文章では結語はどうなっているか。「この作品の冴えた暗さ、直叙体の重いリズムには無頼の魅力がある。不可知の時間「昼寝」と神との対話者「神父」は「不可思議」を以て繋がれ、その唐突な出会の因と果は語られぬ。‥初七の重みとたゆたひとはすなはち草田男の肉と心の相でもあった。」
 結語までとりあえず理解できる文脈である。だがしかし最後の一文はやはり理解できない。
 私の文章読解能力の欠如であろうか。それならばそれはいたし方のないものである。