今年一年の記憶は何だろう。3月11日の震災は横浜市内の路上で体験した。駐車場の車が今にも動き出しそうに揺れ、大きな看板が落ちそうに揺れ、恐怖を味わった。反対論者もあらためてその影響の大きさに驚愕した原発事故もある。
台風15号では塩害による樹木の葉の枯れに驚いた。しかし台風15号は自然災害である。3月11日の震災は自然災害であると同時に原発事故は人災でもある。作り上げられた安全神話がいかにもろいものであるか、明らかとなった。台風という年中行事のような災害にも人は無力である。数百年に一度の地震災害に、耐震建築物も防波堤もそして原発も無力であった。
政治は明らかに戦後「後」の社会・経済構造に立ち遅れている。その無力をさらけ出している。震災復興・国家財政・沖縄・景気‥‥、私たちは自らの利害と全体の行方の折り合いのつけ所を見失っている。先行きの見えない不安感が増大して暗雲の下にいるような閉塞感を持っている。威勢のよい嘘が、人気投票が、ゴシップが政治を左右するようになった。これは明らかに民主主義の危機でもある。
しかしながら全体の社会状況は状況として流れつつも、私たちは個々の個人の領域の折り合いもまたつけにくくなり、人生の里程標のそこかしこで立ち往生している。多くの友人が社会や職場と個人との折り合いに失敗をして悩んでいる。とうの私も躓きかけた。年間自殺者3万人という水準のむごさがこれを証明しているのではないか。
こんなことを考えながら年の瀬を迎えた。来年はどうなるのであろうか。私はとことん、「個」の領域にこだわって生きたい。少なくとも大状況を語ったり、「‥ねばならぬ」式の上意下達の政治に関わったり、歯の浮いた同情や「連帯」にも関わらない。
60歳・定年という誰でもがとおる里程標をどのように個人史として関わっていくのか、どのように歳をとっていくのか、老年とはどういうものか、自分の中に繰り込んでいきたい。それが団塊の世代・全共闘世代の最後尾に位置する私の生涯の後退戦のありようかもしれない。
台風15号では塩害による樹木の葉の枯れに驚いた。しかし台風15号は自然災害である。3月11日の震災は自然災害であると同時に原発事故は人災でもある。作り上げられた安全神話がいかにもろいものであるか、明らかとなった。台風という年中行事のような災害にも人は無力である。数百年に一度の地震災害に、耐震建築物も防波堤もそして原発も無力であった。
政治は明らかに戦後「後」の社会・経済構造に立ち遅れている。その無力をさらけ出している。震災復興・国家財政・沖縄・景気‥‥、私たちは自らの利害と全体の行方の折り合いのつけ所を見失っている。先行きの見えない不安感が増大して暗雲の下にいるような閉塞感を持っている。威勢のよい嘘が、人気投票が、ゴシップが政治を左右するようになった。これは明らかに民主主義の危機でもある。
しかしながら全体の社会状況は状況として流れつつも、私たちは個々の個人の領域の折り合いもまたつけにくくなり、人生の里程標のそこかしこで立ち往生している。多くの友人が社会や職場と個人との折り合いに失敗をして悩んでいる。とうの私も躓きかけた。年間自殺者3万人という水準のむごさがこれを証明しているのではないか。
こんなことを考えながら年の瀬を迎えた。来年はどうなるのであろうか。私はとことん、「個」の領域にこだわって生きたい。少なくとも大状況を語ったり、「‥ねばならぬ」式の上意下達の政治に関わったり、歯の浮いた同情や「連帯」にも関わらない。
60歳・定年という誰でもがとおる里程標をどのように個人史として関わっていくのか、どのように歳をとっていくのか、老年とはどういうものか、自分の中に繰り込んでいきたい。それが団塊の世代・全共闘世代の最後尾に位置する私の生涯の後退戦のありようかもしれない。