Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

定年退職

2012年03月31日 15時19分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日無事横浜市職員としての定年退職を迎えた。暦の上では身分は本日の24時まであるが…。
 37年間の仕事、思い出はいろいろたくさんあるが、私としては誠実にすべて対処してきたつもりだ。
 37年間、労働組合との二足の草鞋を履き通した。それゆえ出先の道路・下水・河川の維持管理を行う職場に事務職として在籍しとおしたが、最初の16年間は、組合の分会の役員として、そして反主流派としての単組横断的活動も加え、さらに当然仕事も抱え、いつも何かしら20件近い案件を抱え込んでいたと思う。聖徳太子よりすごい24時間365日働きづくめの、企業戦士も足元に及ばない我ながらびっくりするほどの活動家でもあった。仕事も下水道の膨大な公共投資で1年で1万箇所の許認可をこなし、仕事は最も忙しかったと記憶している。
 次の15年間は組合の非主流派と一体となった自治労系組合の支部三役として交渉ごと、組織活動の中心を担い続けた。全労連系が圧倒的多数派の領域で、単組の旗・支部の旗を揚げ続け、踏ん張りきることができた。仕事も大規模公共投資後の大量の落ち穂拾いである下水道料金の徴収開始業務を5年間行い、一つの区で7000余件の収入の実をあげた。また出先職場に移管されたものの未整理で膨大な文書の整理も5年かけた。超勤代も代休も満足にもらわずに我慢した。
 この合わせて31年間、災害配備では常に第一線で、雪や台風のたびに区内の道路の確保・下水道の施設管理に徹夜の業務に従事したのが忘れられない。これは誇りだ。
 最後の6年間は支部長として組合の業務量は半減したものの、心臓をむしり取られるような、非公式な交渉ごとを1人で取り仕切った。精神的につらかった6年間だった。仕事の量は半減していたが‥。

 労働組合としては、現業の自治労といわれ、現業課題については食らいついて離さない交渉スタイルを支部で確保したと思う。初めて組合の役員になった時、「この職場の現業職員は定年まで職があり続けられるだろうか」、と現業の同期に入った一つ年上の仲間に問いかけられ、「私が役員をやっている間は存続させる、だから一緒にやろう」と応えたのを今でも覚えている。相手も覚えていてくれている。そしておかげで今でも減員はくらったものの仕事の領域を拡大でき、土木現業は存続している。この約束を守ることができたのが私の最大の誇りだ。20代半ばの小生意気な決意表明だったが、この決意・約束を守るために私は本当に必死だった。現業職場縮小の合理化提案が出るたびにこの約束・決意を思い返してきた。この約束をした仲間は昨年無事この職を全うして、私どもの組合員として、職場役員として職場を長年まとめ通して定年退職を迎えた。
 災害配備のたびに、そして日常の業務でも、現業の仲間の存在・活用を管理職に嫌われるほど訴え続け、組合の枠を超えて仲間にも存在価値の自覚を促し続けた。

 今思うと、よくこれだけの業務をこなしてきたものだと自分でも思う。いったいいつ睡眠を取っていたのか、とも思う。17年目の時に軽い狭心症の発作に襲われた。27年目からは大腸の潰瘍に3年悩まされた。身体が悲鳴を上げたのだと思う。

 私は、60歳以降の再任用・職の確保には応じなかった。生活水準の確保より、ぎりぎりの生活でも精神的な落ち着きに心惹かれたからだ。60歳の区切りは人生の大きな区切りとしてけじめをつけたかった。
 さてこれからいかなる生活が待っているやら。楽しみである。