人が癒されるものにはいろいろあるが、海岸の波などその顕著なものだろう。私も波を見ていると飽きない。川の流れ、滝の落ちる様子、噴水、煙突や線香の煙、などなど波と称されるものは総じて見ていて飽きないものだし、見ていていつしか時が経つのもわすれてしまう。炎や風にひるがえる旗や吹流しも空気の流れを見ているのだからそれに数えられるだろう。波動とは違うが雨だれも見飽きないものの一つだ。
一見規則的に繰り返されるものだが、よく細部を見るとそれはまったく同じものの定期的な繰り返しではない。海の波など繰り返し同じように押し寄せるが、波の形は決して同じではない。炎は色も形も揺れるたびに微妙に違う。煙もそうだ。空をただよう雲もうろこ雲など同じような形が幾つも見えるが微妙にそれぞれの形は違うし、時間の変化とともに千変万華に移ろっていく。
微妙に違うものが総体として規則的に繰り返されているものである。人はそのようなものに心を奪われるものらしい。
これが振り子などの人工的なものでは、いつか規則性が再現され、まったく同じことが繰り返されていることがわかったとたんに、もう見飽きてしまわないだろうか。錘が二つつながった二重振り子、三重振り子でもいつしか見飽きてしまう。ちなみに単純な錘一つの振り子でも途中で人間の手でちょっと触ると途端に複雑な動きを見せてくれる。左右の動きに微妙な動きが加わり、二度と同じ繰り返しが起きない。すると不思議なことに、いくら見続けても見飽きないのだ。見飽きないどころか、ずっと見続けることに執着してしまうこともある。
水槽の中の小魚の動きにも癒される。左右を行ったり来たり、あるいは上下の運動を繰り返しているが、決してまったく同じ動きはしない。微妙にその姿勢や位置を変えている。それに癒される人間も多い。人工の水槽映像で魚が泳いでいるように見える画面がはやっているが、私も30分ほど見続けているうちにその規則性に気づいた。逆にそうなるとその動きが目に煩わしく、見ていると肩が凝るようになり、目がちかちかし始めた。目をそむけることになる。すぐに見るのを止めてしまった。
人は焚き火の火を見続けることができ、そうすることで心が休まるという。不安や危惧が遠のくらしい。私も若いとき、山で24時間頂上の避難小屋に一人悪天候で閉じ込められたことがある。そのとき、蝋燭の小さな炎が安らぎと不安解消に役立ったことを覚えている。先行きを悪く悪く考えてしまうことから、この蝋燭の小さな炎が救ってくれたように感じた。
24時間後の早朝すっかり晴れ上がった3000メートルの頂上の朝日をなんと晴れやかに迎えたことか。これで助かったと感じた。考えてみれば高々24時間安全な小屋に閉じ込められていただけなのだが、あの炎がなければ経験も少なく単独行の私としてはオタオタし通しだったかもしれない。
炎は本当に不思議だ。時々風に揺れたり、不純物の燃焼が加わり音を立てるが、基本的に同じ形だ。しかし見つめれば見つめるほど微妙にその色と形を変える。焚き火はさらにその変化が激しい。太古の昔から人類はこの炎の与える変化によってもたらされる癒し、安堵感、そしてぬくもりにまもられてきたのであろう。そして波の繰り返される音、その音にも微妙な無限の変化がある。
もしもこれらのものが、まったく同じものの繰り返しだとしたら、背筋がぞっとするのは私ばかりではないであろう。無限に続く飽きない動き、規則性の中の不規則な動きこそ、人に癒しと、安堵、そして平穏をもたらすものかもしれない。
一見規則的に繰り返されるものだが、よく細部を見るとそれはまったく同じものの定期的な繰り返しではない。海の波など繰り返し同じように押し寄せるが、波の形は決して同じではない。炎は色も形も揺れるたびに微妙に違う。煙もそうだ。空をただよう雲もうろこ雲など同じような形が幾つも見えるが微妙にそれぞれの形は違うし、時間の変化とともに千変万華に移ろっていく。
微妙に違うものが総体として規則的に繰り返されているものである。人はそのようなものに心を奪われるものらしい。
これが振り子などの人工的なものでは、いつか規則性が再現され、まったく同じことが繰り返されていることがわかったとたんに、もう見飽きてしまわないだろうか。錘が二つつながった二重振り子、三重振り子でもいつしか見飽きてしまう。ちなみに単純な錘一つの振り子でも途中で人間の手でちょっと触ると途端に複雑な動きを見せてくれる。左右の動きに微妙な動きが加わり、二度と同じ繰り返しが起きない。すると不思議なことに、いくら見続けても見飽きないのだ。見飽きないどころか、ずっと見続けることに執着してしまうこともある。
水槽の中の小魚の動きにも癒される。左右を行ったり来たり、あるいは上下の運動を繰り返しているが、決してまったく同じ動きはしない。微妙にその姿勢や位置を変えている。それに癒される人間も多い。人工の水槽映像で魚が泳いでいるように見える画面がはやっているが、私も30分ほど見続けているうちにその規則性に気づいた。逆にそうなるとその動きが目に煩わしく、見ていると肩が凝るようになり、目がちかちかし始めた。目をそむけることになる。すぐに見るのを止めてしまった。
人は焚き火の火を見続けることができ、そうすることで心が休まるという。不安や危惧が遠のくらしい。私も若いとき、山で24時間頂上の避難小屋に一人悪天候で閉じ込められたことがある。そのとき、蝋燭の小さな炎が安らぎと不安解消に役立ったことを覚えている。先行きを悪く悪く考えてしまうことから、この蝋燭の小さな炎が救ってくれたように感じた。
24時間後の早朝すっかり晴れ上がった3000メートルの頂上の朝日をなんと晴れやかに迎えたことか。これで助かったと感じた。考えてみれば高々24時間安全な小屋に閉じ込められていただけなのだが、あの炎がなければ経験も少なく単独行の私としてはオタオタし通しだったかもしれない。
炎は本当に不思議だ。時々風に揺れたり、不純物の燃焼が加わり音を立てるが、基本的に同じ形だ。しかし見つめれば見つめるほど微妙にその色と形を変える。焚き火はさらにその変化が激しい。太古の昔から人類はこの炎の与える変化によってもたらされる癒し、安堵感、そしてぬくもりにまもられてきたのであろう。そして波の繰り返される音、その音にも微妙な無限の変化がある。
もしもこれらのものが、まったく同じものの繰り返しだとしたら、背筋がぞっとするのは私ばかりではないであろう。無限に続く飽きない動き、規則性の中の不規則な動きこそ、人に癒しと、安堵、そして平穏をもたらすものかもしれない。