「老いの深み」の中で、「八十代の朝と九十代の朝」で次のように記されている。
八十代の頃は朝、ベッドに腰かけていると、「子供の頃の空気がよみがえり、今はこの世から遠く去った両親や祖母や兄のことなどが自然に思い出されて来る。」
しかし九十代になって「寝起きの際に出会うのは、そんな透明な甘美で優しい時間ではない。・・今、何時だろうという問いが自分の中に起き上がる。」
この違いを著者は、「八十代の老いが持つ詩的世界は歳月とともに次第に変化し、いつか九十代の散文が抱える世界へと変化していくのではないだろうか。」
と記している。
〈老い〉は「時間の量的表現ではなく、人が生きつづける姿勢そのものの質的表現でもあることを忘れてはなるまい。老人は生きている。美しい沼も、乾いた数字も踏みしめて――。〈老い〉は変化し、成長する。」
この記述に惹かれた。「詩と散文とを単純に対立」的に捉えたり、〈老い〉を「経年変化のシルシとしてけとめようとするか」という思考にならないのがなかなか「しぶとい」。
私は逆ではないか、と考えていた。現役時代をひきづっていた60代前半は、「今日は何曜日で、今は何時か、今日の予定は・・・」と思っていた。そして次第にその思いから遠ざかり、70代前半の今は「本日読む本は何にしようか」と思う。これから先私は、「身内などの家族のことが毎朝思い浮かべたり、若い頃に読んだ詩や小説などのことを思い浮かべるのではないか」と思いこんでいた。
〈老い〉とともに、どんな変化が寝起きのときにあるのか、考えてみる参考になる。