いつものとおり覚書として。要約でもキーセンテンスでもなく、気になった個所をピックアップしたもの。引用がないものも眼をとおしたもの。目をとおしていないものは記載していない。
・表紙「黒い雨」 司 修
「私は、『詩集 原子雲の下より』を読みました。‥私はこの詩を見に見たいと、陽が沈み、薄暗くなった部屋の中で、机に乗せた腕に顔を支え、じっと窓ガラスの小さな染みを見つめていました。あたりが真っ暗になってから、直径三ミリぐらいの染みが、真夏の山手線で入り込む白昼夢のごとく膨らんでいくのを見ました。
・マスク 村上陽一郎
・抱擁 小池昌代
・玉露とパイプとコロッケと みやこうせい
――ある日の吉田一穂
・虚言の文学者 四方田犬彦
・ロシアヘイトの根源 亀山郁夫
・アリスのいないお茶会(前篇) 吉田篤弘
・ゴッホの《ひまわり》 パリ編(上) 正田倫顕
「(ひまわりを描いた作品は)確認できるだけで、31枚の作品を描いたことが分かる。オランダ時代に1枚、パリ時代に13枚、アルルで10枚、サン・レミで4枚そしてオーヴェール・シュル・オワーズで3枚ということになる。以外にもアルルよりもパリで描いた作品の方が数が多い。」
「当時のフランテ図はひまわりは装飾モチーフとして人気があった。‥ゴッホがバリで多くのひまわりを描き始めたのは、こうしたフランスにおける流行も関係していたであろう。」
「ゴッホの《ひまわり》に目を遣ると、葉をなくし、種を結んで、枯れかかっている。‥ずっしりとした重みを
感じさせる。切断された花冠はまるで無造作に遺棄されたかのようで、明らかに死へと接近している。‥こまわりをこの状態で描いたことに、画家の独創性があるだろう。」
「それまでもゴッホはぐったりとくたびれ、傷つき、消耗した人やものに惹きつけられてきた。《馬鈴薯を食べる人たち》‥《悲しみ》‥などで人生の辛苦を感じさせるモチーフを取り上げてきた。喜びよりも哀しみを重んじたゴッホには、真正面から向き合うべき課題であったのだ。」
「ゴッホは(1877年の4枚のひまわりの連作の)枯れかけたひまわりで何を表そうとしたのだろうか。‥これらのひまわりは室内で一定期間、鑑賞されたあと、不用になって捨てられたものとも考えられる。‥‥(にもかかわらず)ひまわりからは明るく明るく力強い波動が放射され、エネルギーが漲っている。本来悲しむべき暗澹たる死、生物にとっての最大の否定的出来事である死、それが別様に表れて出ているのだ。ひまわりは人間が考えるような意味での死を超えて、今ここで充足している。しかも花と環境は対立しているのではなく、境界をこえてつながり、響き合っている。いわばひまわりという局所特異点に、全宇宙のエネルギーが凝集しているかのようなのだ。何の変哲もない場所が特別な中心として、波動の源を占めている。そして花には多数の種が宿り、‥。死の中に生があり、生の中に死がある。」
「この絵をX線で撮影すると、ワイングラスをもった自画像が浮き上がる。ひまわりの背後にはゴッホの姿もぴたりと重なっているようなのだ。‥ここには画家とひまわりの一致というテーマも垣間見られるであろう。」
最後引用が長くなったけれども、なかなか牽かれる連載である。注目しておきたい。もう一度じっくりと読みなおしたい。