★六月の女すわれる荒筵 石田波郷
こんな句に出会った。敗戦直後の1948年に出た句集「雨覆」におさめられているという情報しか持ち合わせがない。
この句、どう解釈していいのか分からない。私なりにいろいろイメージを膨らませてみた。
まず「荒筵」は今の人にはわからないかもしれない。私もそれに座り込んだ経験は多分一度しかない。
私にとってそのイメージはとても暗い。小学校に入る前後6年ほど函館に住んでいたが、月に数回しか登校しない子の家に担任の教師と数人の級友とで訪れた記憶が何回かある。学校行事を記した連絡ノートを持って行ったが、そこの家にはブヨブヨの畳と筵が敷いてあったのを覚えている。いつも親はおらず、級友は弟か妹を連れ飛び出して戻ってくることはなかった。仕方なく教師がノートを玄関の板の間に置いて帰ってきた。私の家の暮らしとの落差に驚いた。
「荒筵」というとこのように貧しく、暗い暮らしのイメージがまず浮かんでくる。なお、5年後横浜に来て、小学校の高学年の時に見た新興住宅街の周囲の農家の筵のイメージにはそんな暗さはなかった。花や犬・猫に囲まれた明るい農作業のイメージである。しかし掲句の荒筵はこのイメージとは合わない。掲句の「荒筵」には仲間のいる労働や家族のイメージがなく孤独である。
そのように暗いイメージの「荒筵」に女が座っている。多分家の中に敷いてある「荒筵」と思った。年齢も分からない「女」が「座って」いる。生活にやつれた様なイメージしか私には湧いてこない。
それが6月だという。梅雨が始まる前だろう。梅雨の時期ならば「梅雨入りの」「荒梅雨の」などの季語を持ってくるはずだ。すると梅雨時よりも少し明るい。仕事もなく農作業などに追われるでもなく、座り込んでいる「女」。あまりに貧しく、暗い生活の断面を切り取ったかのような句に思える。それは敗戦直後の日本の普遍的な風景、空襲で焼け出されたり、大切な家族を奪われて出口のない状況を象徴しようとした作品なのであろうか。
私は読めば読むほど、救いのないこの句の暗さばかりが見えて、どこにも光が見えない。わずかに「六月」に梅雨前のじろじろとはしているが、夏の蒸し暑さ程度のどんよりとした内に向かう光を見るだけである。
それとも私のイメージがどこかで間違って袋小路に入ってしまったのか。