Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日から「楽天の日々」(古井由吉)

2024年02月29日 09時53分55秒 | 読書



 昨日は、フラワー緑道をのんびりと歩いてから、横浜駅傍のいつもの喫茶店で読書タイム。古井由吉「楽天の日々」(草思社文庫)の最初の5編に目を通した。
 1970年代初頭には長編をいくつか続けて読んだが、その後いつの間にか読まなくなっていた。ほぼ50年ぶりに読むエッセイである。読み続けるのはなかなか難しい文体であるが、今回はエッセイに挑戦である。
 著者独特の文体と思考と思われる個所をいくつか取り上げてみたい。同意・不同意とは別である。

詩をつくるのは興に乗りさえすればまだしもたやすいことだが、さてつくり終えて詩中の一字に心足らわふところがある、これを直すほうがはるかにむずかしい、というような意味のことをたしか清の時代の文学者が書いているのを、永井荷風が日記の中で引いている。さらに曰く、その場で直そうと苦心しても直るものではない、何日も経って、そのことを忘れた頃になり、あるべき文字がおのずと心に浮かぶ、と。・・・・しかし考えてみればかりにこだわりを放下して、文章のおのずと直るのを待つとしても、自分にはその日が来るものだろうか、と疑った。また、ひとつの文字が心に足らわふとは、詩がすでに完璧の域に入っていて、最後の文字を待って張りつめているということではないか。この文の緊張こそがやがて言葉を呼ぶ。」(「夜の楽しみ」)

虚無が物やら形象やらの狂乱反乱を呼ぶとは、虚無が寂滅へ通じるこちらと感じ方がずいぶん違うものだと驚いた。しかしそうでもないか。(島崎藤村「夜明け前」の主人公)青山半蔵の身辺にも、一新によって伝統が壊されて自身の理念も破れかけた時に、化物が跳梁し始めたではないか、と思い直した。混沌の恐怖もまた根は揺るがしがたい単調の相のものであるらしい。これは若年にも老年にも共通することか。」(「病み上がりのおさらい」)

時代がさらに進むにつれて、宗教的な超越の心に支えられることはすくなくなっても、写実はいよいよきびしくなって行ったようだ。近代の反写実や超現実も写実の過激化の結果、あるいは過激化そのものではないのか。極限からまた極限への展開ともいえる。限界に至るそのたびに、写実は厳格になるほどに、その移すべき「実」を解体していくという矛盾域に入る。・・・解体の先に不毛と虚無を見た過激な詩人もいた。絶望がかすかな希望へ通ずるらしい。現実の始まり、つまり「始めの言葉」を待つようなのだ。時代の危機にふれて写実がけわしくなるということも東西の歴史にくりかえされてきたことなのだろう。東日本大地震大津波の惨事の後から、千何百年昔にも東北に今回の規模に劣らぬ大地震大津波のあったことが指摘された。貞観年間のことだという。・・・・ふっと貞観の仏たちの相貌が浮かんだ。写真集をひらけば、烈しい形相の仏たちがあり、峻厳に静まった仏たちがあり、一見柔和な仏たちもあるが、いずれもその面立は深くけわしく、写実が現実らしさを越えそうな境まで彫りこまれている。」(「写実ということの底知れなさ」)

 なかなかすぐには理解できない文章が並ぶ。理解できるまでに時間がかかる。根気よくこの本全体を読み切るということはできないかもしれない。
 少しでも共感できるところがあれば、また読み続けることができると思うが、それを期待してしばらくは頁をめくりつづけたい。



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