戦後日本の外交の舞台裏を新たな証言で振り返る
第1回のリンク
第2回のテーマは「冷戦 日本の選択」
「経済大国」となった日本が「冷戦」の最中でどう外交に向かったか
<おおすじの流れ>
世界が核戦争の危機にあった時代「冷戦」
アメリカとソヴィエトの熾烈な覇権争いが繰り広げられていた
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日本は自らの外交政策を求め続けていく
戦後最大の外交課題「沖縄返還」に挑む
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その裏でアメリカ首脳部が極秘に行った協議の録音が発見された
1971 敵対していたアメリカと中国が電撃的に和解 日本は「日中国交正常化」に乗り出す
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中国への経済援助を進める日本 アジアが発展する時代の扉を開いた
今回もほぼお金の話
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日本人が勤勉に“モーレツ”に働いて稼ぎ続けるお蔭で、世界の銀行みたいになってる感じ
注目は「沖縄問題」と「尖閣諸島問題」
***
「沖縄返還」
在日アメリカ軍専用施設の74%が集中する沖縄
アッキーがゆく もっと知りたい沖縄 with ヤナギー 続編@あさイチ
1965 佐藤首相がアメリカの施政権下にあった沖縄を訪問
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佐藤:
私は沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり
わが国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております
当時、沖縄の基地からアメリカ軍の爆撃機が次々とベトナム戦争に出撃していた
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東アジアの安全保障の要だった沖縄には、核兵器が配備されていた
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(第二次世界大戦で原爆を落とした国に、戦後間もなくよくそんなものが置けたものだ・・・
佐藤はそれをすべて取り除く返還を目指した
外務省で沖縄返還交渉に取り組んだ栗山さん生前最後のインタビュー
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故栗山 当時 外務省:
佐藤さんは、核の問題に非常に執着しておられて
解決するためにどうすればいいか苦労して
密使の若泉敬さんという学者も使って、突破しようとした
1969 佐藤・ニクソン会談で返還交渉が大きく動く
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佐藤「1972年中に沖縄が核兵器の全く存在しない形でわが国に返還される」
3年後の返還という合意
その裏で緊急時には核兵器を沖縄に持ち込むという「密約」を交わしたことが明らかとなっている
「貿易摩擦」
さらに佐藤はもう1つの「密約」を交わした
日本からアメリカへ輸出される繊維製品に上限を設けること
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この前年、日本は西ドイツを抜いて、世界第2位の経済大国となり、
アメリカにとって日本経済は大きな脅威となった
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最大の課題は繊維製品を巡る「貿易摩擦」
日本の安い繊維製品が輸出され、アメリカの繊維産業は大きなダメージを受け、デモが起きる
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問題解決を大統領選で公約に掲げたニクソン
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ニクソンとの外交で、佐藤は「輸出規制」を約束
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しかし、繊維産業の反発にあい、規制を実現できない
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栗山:
日本自体が繊維の問題でニクソンがどれだけ頭を抱えていたか、あまり真剣に考えていなかった
佐藤さんは、その点の認識が若干甘かった 正確に認識していなかったのが実は問題だった
それがニクソンが非常に佐藤さんに対して不信感をもつ原因となった
同じ頃、アメリカは冷戦の戦略を大きく転換させようとしていた
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アメリカが介入したベトナム戦争
ソヴィエト、中国が支援する北ベトナムとの戦闘が泥沼化したいた
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反戦運動が高まり、戦争終結が大きな課題となっていた
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ニクソンは新たな外交戦略をキッシンジャーに委ねる
アメリカは中国を通じて、北ベトナムとの和平を引き出そうとした
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ウィンストン・ロード 当時 国家安全保障会議スタッフ:
中国は北ベトナムに武器を供給していました(お互い様では?
アメリカは中国の協力を得て、戦争を終わらせようと考えた
世界の1/5の人口を占め、いずれ大国になる中国と関係を結ぶことも大切だった
中国も大きな問題を抱えていた 政治路線の違いから国境で衝突
1969 中ソ国境紛争(いつでも、どこかで戦争があるね
双方に多数の死傷者を出した大規模な紛争に発展した
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ソヴィエトの核攻撃の脅威に直面した毛沢東
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呉建民 元国連中国代表団代表:
毛沢東首席は、厳しい外交戦略を模索していた
当時、中国はソヴィエトともアメリカとも敵対していました
この状況を打開することは、アメリカと交流することが有利だった
この結論から中国は、アメリカとの外交政策を大きく転換した
中国は極秘にアメリカとの接近を図った
1970.12 中国の国営通信が尖閣諸島の領有権を主張
中国と敵対していた台湾は、これに反発
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1971.2 台湾も尖閣の主権を主張
「尖閣諸島」
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1895 日本は領土に編入
戦後、サンフランシスコ平和条約で、沖縄がアメリカの「施政権下」(行政・立法・司法を行使する権限)
つまり、行政下におかれた時に含まれたと、日米は考えていた
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1968年の調査で、周辺に石油の埋蔵の可能性が指摘された(また大金のニオイが
外務省の栗山さんは、尖閣の主権は日本がもつことを「沖縄返還」の協定文に明示するようアメリカに迫った
栗山:
日本は、サンフランシスコ平和条約で施政権をアメリカに渡した
尖閣諸島を含めて渡したということは、アメリカが日本の領有権を認めたからこそ
施政権を引き受けたという認識だったから、“尖閣を含む”と書いてくれと要求した
栗山さんと交渉したチャールズ・シュミッツ 当時 アメリカ国務省法務官:
アメリカは日本に施政権を返還します
主権については判断する立場ではなかった
アメリカは、主権に関する衝突が生じた場合、関係する当事者同士で解決する問題だとした
近年、同じ頃、別の問題が絡み合っていたことがアメリカと台湾の秘密交渉記録から明らかとなった
アメリカは繊維製品の「輸出規制」を台湾にも求めていた
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日本が実現できなかった繊維の輸出規制
アメリカは経済外交をアジア諸国に広げていた
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アメリカの重要な同盟国だった台湾
米中接近が極秘に進む中、アメリカの動きに注意を払っていた
アメリカとの繊維交渉にあたった銭復氏
銭復 当時 外交部北米司長:
アメリカの台湾政策の風向きが徐々に変わっていた
アメリカの要人がなかなか台湾に来なくなった
繊維の輸出規制を求めてきた時、その会談は重要なチャンスだと思った
Q:尖閣諸島もこの時に議論された?
我々が会談で尖閣諸島のことを持ち出しました
ニクソンにこちらの主張を直接伝えてもらいたかった
アメリカは「繊維交渉」と「尖閣諸島」を結びつけた交渉案を作成
台湾の譲歩を引き出すため、沖縄返還で、尖閣諸島の施政権を日本に返還しないというもの
これを受けてホワイトハウスで緊急会議が召集
沖縄返還の調印10日前だった 1971.6.7
ニクソンとキッシンジャーが極秘に協議した時の記録が3年前に発見された
ニクソンは執務室での会話を密かに録音していた
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<録音記録>
キッシンジャー:
今、尖閣諸島を扱うと、意図的に返還協定を妨害しているようになります
日米関係は大きな危険にさらされるでしょう
ニクソン:このやっかいな島はなんだ
キッシンジャー:沖縄返還協定が台無しになってしまう
ニクソン:それはまずい
キッシンジャー:日本に大きな借りを作ることになる
尖閣諸島の施政権は日本に返還されることに決まった
シュミッツ:
尖閣諸島と沖縄返還について話せば話すほど、状況は悪くなった
アメリカは事態を鎮めようとした
そうすれば主権の問題は当事者同士で解決できるだろうと考えた
1971.6.17 沖縄返還協定調印
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協定文に尖閣の文字はない
緯度経度でアメリカが施政権を返還する地域が示され、そこには尖閣諸島は含まれる
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返還交渉の舞台裏で、佐藤は繊維の輸出規制を約束していたが実現できずにいた
ニクソンからの手紙が届いた「失望と懸念を隠すことが出来ない」
1971.7 キッシンジャーが極秘に訪中し、周恩来との会談を実現
日本政府にはまったく知らされなかった
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1971.7.15 「米中接近」
中国の周恩来首相は、ニクソン大統領を招待します
ニクソン:喜んで受諾します
佐藤政権がこれを知らされたのは、発表のわずか2時間前
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1971.8 金とドルの交換を停止する「ドル・ショック」が起きた
日本の為替市場が開いた直後に発表され、ドルは暴落、日本経済は混乱した
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1972.2 ニクソン訪中を実現
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1972.5.15 沖縄返還
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基地は存続
沖縄には返還後もアメリカ軍の基地が存続することになった
核、繊維、尖閣諸島、さまざまな課題を経ての沖縄返還だった
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増田(日米関係を中心に外交史を研究 東洋英和女学院大学教授):
沖縄返還交渉は、戦争を終わらせる一大交渉だった
ギヴ&テイクの考え方がニクソンの中にあった
ニクソンからすれば、なぜ佐藤は約束を守らないのかという怒りが出た
Q:米中の交渉については?
日本としては信じて疑わない同盟国ですから、それまで一貫してアメリカ外交の後を追ってきた
アメリカにとっても日本はアジアの優等生だったが、経済力を強めてライバルに近い状態になった
日本はアメリカと敵対していた中国が握手するとは思わなかった
Q:尖閣諸島については?
毛里(現代中国を中心に東アジア国際関係を研究 早稲田大学名誉教授):
台湾はアメリカに捨てられてしまう 将来の安全に対する不安を’70年くらいから抱いていた
増田:
キッシンジャーは台湾の要求を飲むわけにはいかない
沖縄返還協定から外すとなると、日本の反発を招いて、協定の成立すら危うくなるかもしれないという判断で提案を退けた
毛里:
沖縄を巡る日米交渉の中で、尖閣は政治化し、今日まで続くトゲのような存在になっている
「日中国交正常化」
戦後、27年間、日本と国交がなかった中国は、かつて日本との戦争で大きな被害を受けた
日本の経済界は中国市場に注目 1960年代から日中貿易の重要性を訴え
にわかに国交正常化への機運が高まる
1972.7 田中角栄内閣成立 外相の大平は「日中国交正常化」に取り組んだ
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大平:中国側の対日認識、理解も進んでおるように受け取れる 時機は熟した
大平のもとに周恩来からメッセージが届いた
「竹入メモ」
毛首席は賠償請求権を放棄する
尖閣列島の問題に触れる必要はありません
大平の首席秘書官として20年間支えた森田一氏:
賠償があるんだったら正常化交渉はムリだと大平は考えていた
賠償があるかないかだけは特に取り出して確認して
絶対、中国は賠償を請求してこないと確信をもった上で準備を始めた
1972.9.25 田中角栄首相 訪中
北京の空港に戦後、日本の首相として初めておりた
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初日に晩餐会が開かれた
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「私は改めて深い反省の念を表明するものであります」
田中の「ご迷惑」の発言は軽々しいと、中国側が激しく反発
翌日、周恩来は「日中戦争」の被害に触れ、田中の発言は中国人の反感を呼ぶと主張
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大平は、中国の外相に車中で中国の通訳だけを介して2人だけの会談をもちかけた
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タモさん!?
通訳のシュウヒンさんは唯一人の生存者でこの体験を証言しつづけている
シュウヒン:
大平先生が喋った
「私の目で見たあの戦争は明白に中国に対する日本の侵略戦争である
わが日本は何も弁解する理由はない
わが方は、つまり私と田中は最大の譲歩はするつもりだ
こうした心構えがなければ、彼も私も中国には来ません
来た以上は、政治生命をかけて、必要なら肉体生命をかけてやりとおす
これをぜひ周恩来総理に伝えてください」
大平の粘り強い交渉で、共同声明の文案がまとめられていく
訪中3日目の会談で、触れる必要がないという尖閣諸島について田中が発言
<記録>
田中:尖閣諸島についてどう思うか?
周恩来:
尖閣諸島問題については、今回は話したくない
石油が出るから問題になった
石油が出なければ、台湾もアメリカも問題にしない
中国側は、尖閣諸島問題を一時棚上げした
日本政府は、尖閣諸島は固有の領土であり、領有権の問題は存在しないという立場で一貫する
1972.9.29 日中共同声明 調印
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日本側:
日本が日中戦争で国民に重大な損害を与えたことへの責任を痛感し、深く反省する
中国側:
日本の戦争賠償の請求を放棄する
日本と中国は「国交正常化」に至った
森田:
大平は帰りの飛行機の中でひと言
「今はお祭り騒ぎで両国ともいいけれど、30年経ったら結構大変なことになる」
その時、私は中国が発展して、大きくなった時に、例えば周恩来なんかは
「日本は中国の先生ですからいろいろ教えてもらわないといけない」という発言があったが
そういうのも将来は変わるんだろうなと予測しているんだなと理解した
Q:なぜ、ニクソン訪中の半年後に可能になったか?
増田:
1950年代の末から土台づくりがあった
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日中の経済提携を3人が努力していた
これから中国市場を見逃してはいけないと
Q:「国交正常化」の意味は?
毛里:
戦争の問題もあって、日本はなかなかアジアを語れない ある種、足がすくんでいた
「国交正常化」で大陸の中国が賠償を放棄してくれて、対等の関係になれた
普通の対アジア政策ができる条件ができたと思う
日本は新たな役割を求められていく
1970年代 東南アジア諸国と経済関係を深めていた日本
1977 平和と繁栄を目指す「福田ドクリン」を発表
中国との経済交流を進めることが日本外交の大きな課題となる
1978.8 日本は中国との「平和友好条約」の交渉に取り組む
園田外相が北京を訪問 トウショウヘイと会談
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会談の4ヶ月前 100隻以上の中国の漁船団が尖閣諸島近辺に押し寄せる事件が起きた
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会談でトウショウヘイは事件再発防止を約束
しかし、会談記録は公開されず全容を知ることはできない
田島氏は、当時外務省の中国担当として会談に同席
今回、初めてメモを証言した
田島高志 当時 外務省中国議長:
走り書きでメモしたので、私でないと読めませんw
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尖閣諸島についてのトウショウヘイの言葉
「数年、数十年間、数百年おいておいてもよい」
田島:
「我々の世代では知恵がない 次の世代は知恵があるかもしらん
なかったら、その次の世代にはあるかもしらん」というような発言をしました
日本側は中国側の発言に対して、聞き置くに留めたのが事実
事実は向こうが発言して、日本はただ聞いていただけ
きちんと国際法上、実効支配を行ってきた過去の実績があるわけですから
1978.8 日中平和友好条約 締結
これを機に日本の経済協力が本格化
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当時、中国ではようやく「文化大革命」が集結
トウショウヘイは経済の建て直しと中国の近代化を目指す
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1978.10 中国首脳として初めてトウショウヘイ来日
トウショウヘイは高度経済成長期を遂げた日本に目を光らせる
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「新幹線の乗り心地はどうですか?」「速いと思います」
王 当時 トウショウヘイの通訳:
「私の後ろから鞭を持って追っかけているような気がするスピードだ
中国もそういうスピードが必要だ のろのろでは発展できない」
それがトウショウヘイさんの考え方
「日本を中国近代化のモデルにしたい」
トウショウヘイは日本の製鉄所、自動車工場などを精力的に視察
(なにかというとクルマだな
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大平と会談したトウショウヘイは、中国への産業化への支援を求めた
1979.6 日本で初めて先進国首脳会議が開かれた(東京サミット)
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議長は首相に就任した大平
日本は経済大国のリーダーとして、国際社会で主導的な役割を求められる
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1979.12 大平 訪中
中国では「改革開放政策」が始まっていた
この時、大平は500億円もの「政府借款供与」を約束
これにより鉄道や公安設備が拡充するなど飛躍的にインフラ整備が進んだ
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以来、日本の円借款は3兆円を超えた
今回、特別に撮影が許された「大平ノート」
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世界の構造の変化にいち早く着目していた
日本とアメリカを中心としながらも、脱イデオロギー化したソ連、中国などと共存を目指していた
森田:
中国が円満に発展していくことを非常に望んでいて
そのためには、賠償を放棄してもらった関係もあり、円借款も供与するし
もっと分厚い人的交流、文化交流も考えて、発展をできるだけ支えるようにしなければいけない
分厚い日中交流は、分厚いほど時代の変化に耐えられる
「大平学校」
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大平は1980年から日本語教育を育成する事業をはじめる
5年間で延べ600人の日本語教師を輩出し、今は北京日本学研究センターとなっている
日本政府や企業の支援を得て運営される大学院
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教師:
ルソーとかモンテスキューとか、革命思想の源はどこにあるかと言うと
日本というショーウィンドーを通して・・・
卒業生は、日本語教師、学界、経済界で幅広く活躍している
女子生徒:
日本語の先生になりたくてたまらないので
日本語の楽しさについて、もっと勉強したいと思います
女子生徒:
私の母とかは日本のことを知らない もっと知りたいという意欲もない
お互いに理解し合うことがもっとできれば、努力して、いい方向に進められると思います
(女性が多い 若い柔軟な女性の力に期待したい
Q:この時代の日本外交をどう思う?
毛里:
80年代は「日中国交正常化」が成立し、大平氏の援助外交も含めて
日中の経済関係、支援策が比較的うまくいって
エズラ・F・ヴォーゲル氏(著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』)がいう「ゴールデンエイジ」の時代を迎えます
20年間、日本の供与したODAが、中国が受け取った政府借款の42%に達した
それが中国経済を非常に大きくした 結果、今日の世界第2の経済大国として日本を超えて
困るじゃないかってご意見もあるかもしれないけれども
実際には、安定した中国大陸の人々の生活が良くなる、購買力がどんどん上がることは
日本経済に貢献する材料だと思う もちつもたれつの関係ができてきた
Q:この時期の外交から私たちは何を汲み取れるか?
増田:
戦後の日本は平和国家になった 軍事大国の道はもう絶対ダメだと
それに代わる商業的な方向として、経済外交、経済大国があるという消去法ではなく
むしろ、経済外交、経済大国こそ、一番合理性のある方向性だと認識して日本外交はやってきた
気づいたらアメリカからすれば、1989年冷戦の終結で、日本が一番得したのでは
毛里:
戦後の日本が国際社会で論じられる場合、とくにアジア諸国にとっては「発展のモデル」になったこと
単に経済が何%ということではなくて、社会的、文化的にも成長して、非常に大きな安定勢力になった
東アジア全体の安定につながったことが、結果的には日本外交のその後の大きな資産になったのではないか
(経済はふくらんでも、自然破壊、公害問題、原発、過労死、少子化などなど、大きな負の財産もふくらんだけどね
1989 ベルリンの壁崩壊
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戦後、40年間にわたって二分した冷戦
新たな時代が幕を開ける
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第2回のテーマは「冷戦 日本の選択」
「経済大国」となった日本が「冷戦」の最中でどう外交に向かったか
<おおすじの流れ>
世界が核戦争の危機にあった時代「冷戦」
アメリカとソヴィエトの熾烈な覇権争いが繰り広げられていた
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日本は自らの外交政策を求め続けていく
戦後最大の外交課題「沖縄返還」に挑む
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その裏でアメリカ首脳部が極秘に行った協議の録音が発見された
1971 敵対していたアメリカと中国が電撃的に和解 日本は「日中国交正常化」に乗り出す
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中国への経済援助を進める日本 アジアが発展する時代の扉を開いた
今回もほぼお金の話
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日本人が勤勉に“モーレツ”に働いて稼ぎ続けるお蔭で、世界の銀行みたいになってる感じ
注目は「沖縄問題」と「尖閣諸島問題」
***
「沖縄返還」
在日アメリカ軍専用施設の74%が集中する沖縄
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1965 佐藤首相がアメリカの施政権下にあった沖縄を訪問
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佐藤:
私は沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり
わが国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております
当時、沖縄の基地からアメリカ軍の爆撃機が次々とベトナム戦争に出撃していた
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東アジアの安全保障の要だった沖縄には、核兵器が配備されていた
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(第二次世界大戦で原爆を落とした国に、戦後間もなくよくそんなものが置けたものだ・・・
佐藤はそれをすべて取り除く返還を目指した
外務省で沖縄返還交渉に取り組んだ栗山さん生前最後のインタビュー
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故栗山 当時 外務省:
佐藤さんは、核の問題に非常に執着しておられて
解決するためにどうすればいいか苦労して
密使の若泉敬さんという学者も使って、突破しようとした
1969 佐藤・ニクソン会談で返還交渉が大きく動く
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佐藤「1972年中に沖縄が核兵器の全く存在しない形でわが国に返還される」
3年後の返還という合意
その裏で緊急時には核兵器を沖縄に持ち込むという「密約」を交わしたことが明らかとなっている
「貿易摩擦」
さらに佐藤はもう1つの「密約」を交わした
日本からアメリカへ輸出される繊維製品に上限を設けること
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この前年、日本は西ドイツを抜いて、世界第2位の経済大国となり、
アメリカにとって日本経済は大きな脅威となった
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最大の課題は繊維製品を巡る「貿易摩擦」
日本の安い繊維製品が輸出され、アメリカの繊維産業は大きなダメージを受け、デモが起きる
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問題解決を大統領選で公約に掲げたニクソン
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ニクソンとの外交で、佐藤は「輸出規制」を約束
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しかし、繊維産業の反発にあい、規制を実現できない
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栗山:
日本自体が繊維の問題でニクソンがどれだけ頭を抱えていたか、あまり真剣に考えていなかった
佐藤さんは、その点の認識が若干甘かった 正確に認識していなかったのが実は問題だった
それがニクソンが非常に佐藤さんに対して不信感をもつ原因となった
同じ頃、アメリカは冷戦の戦略を大きく転換させようとしていた
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アメリカが介入したベトナム戦争
ソヴィエト、中国が支援する北ベトナムとの戦闘が泥沼化したいた
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反戦運動が高まり、戦争終結が大きな課題となっていた
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ニクソンは新たな外交戦略をキッシンジャーに委ねる
アメリカは中国を通じて、北ベトナムとの和平を引き出そうとした
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ウィンストン・ロード 当時 国家安全保障会議スタッフ:
中国は北ベトナムに武器を供給していました(お互い様では?
アメリカは中国の協力を得て、戦争を終わらせようと考えた
世界の1/5の人口を占め、いずれ大国になる中国と関係を結ぶことも大切だった
中国も大きな問題を抱えていた 政治路線の違いから国境で衝突
1969 中ソ国境紛争(いつでも、どこかで戦争があるね
双方に多数の死傷者を出した大規模な紛争に発展した
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ソヴィエトの核攻撃の脅威に直面した毛沢東
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呉建民 元国連中国代表団代表:
毛沢東首席は、厳しい外交戦略を模索していた
当時、中国はソヴィエトともアメリカとも敵対していました
この状況を打開することは、アメリカと交流することが有利だった
この結論から中国は、アメリカとの外交政策を大きく転換した
中国は極秘にアメリカとの接近を図った
1970.12 中国の国営通信が尖閣諸島の領有権を主張
中国と敵対していた台湾は、これに反発
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1971.2 台湾も尖閣の主権を主張
「尖閣諸島」
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1895 日本は領土に編入
戦後、サンフランシスコ平和条約で、沖縄がアメリカの「施政権下」(行政・立法・司法を行使する権限)
つまり、行政下におかれた時に含まれたと、日米は考えていた
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1968年の調査で、周辺に石油の埋蔵の可能性が指摘された(また大金のニオイが
外務省の栗山さんは、尖閣の主権は日本がもつことを「沖縄返還」の協定文に明示するようアメリカに迫った
栗山:
日本は、サンフランシスコ平和条約で施政権をアメリカに渡した
尖閣諸島を含めて渡したということは、アメリカが日本の領有権を認めたからこそ
施政権を引き受けたという認識だったから、“尖閣を含む”と書いてくれと要求した
栗山さんと交渉したチャールズ・シュミッツ 当時 アメリカ国務省法務官:
アメリカは日本に施政権を返還します
主権については判断する立場ではなかった
アメリカは、主権に関する衝突が生じた場合、関係する当事者同士で解決する問題だとした
近年、同じ頃、別の問題が絡み合っていたことがアメリカと台湾の秘密交渉記録から明らかとなった
アメリカは繊維製品の「輸出規制」を台湾にも求めていた
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日本が実現できなかった繊維の輸出規制
アメリカは経済外交をアジア諸国に広げていた
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アメリカの重要な同盟国だった台湾
米中接近が極秘に進む中、アメリカの動きに注意を払っていた
アメリカとの繊維交渉にあたった銭復氏
銭復 当時 外交部北米司長:
アメリカの台湾政策の風向きが徐々に変わっていた
アメリカの要人がなかなか台湾に来なくなった
繊維の輸出規制を求めてきた時、その会談は重要なチャンスだと思った
Q:尖閣諸島もこの時に議論された?
我々が会談で尖閣諸島のことを持ち出しました
ニクソンにこちらの主張を直接伝えてもらいたかった
アメリカは「繊維交渉」と「尖閣諸島」を結びつけた交渉案を作成
台湾の譲歩を引き出すため、沖縄返還で、尖閣諸島の施政権を日本に返還しないというもの
これを受けてホワイトハウスで緊急会議が召集
沖縄返還の調印10日前だった 1971.6.7
ニクソンとキッシンジャーが極秘に協議した時の記録が3年前に発見された
ニクソンは執務室での会話を密かに録音していた
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<録音記録>
キッシンジャー:
今、尖閣諸島を扱うと、意図的に返還協定を妨害しているようになります
日米関係は大きな危険にさらされるでしょう
ニクソン:このやっかいな島はなんだ
キッシンジャー:沖縄返還協定が台無しになってしまう
ニクソン:それはまずい
キッシンジャー:日本に大きな借りを作ることになる
尖閣諸島の施政権は日本に返還されることに決まった
シュミッツ:
尖閣諸島と沖縄返還について話せば話すほど、状況は悪くなった
アメリカは事態を鎮めようとした
そうすれば主権の問題は当事者同士で解決できるだろうと考えた
1971.6.17 沖縄返還協定調印
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協定文に尖閣の文字はない
緯度経度でアメリカが施政権を返還する地域が示され、そこには尖閣諸島は含まれる
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返還交渉の舞台裏で、佐藤は繊維の輸出規制を約束していたが実現できずにいた
ニクソンからの手紙が届いた「失望と懸念を隠すことが出来ない」
1971.7 キッシンジャーが極秘に訪中し、周恩来との会談を実現
日本政府にはまったく知らされなかった
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1971.7.15 「米中接近」
中国の周恩来首相は、ニクソン大統領を招待します
ニクソン:喜んで受諾します
佐藤政権がこれを知らされたのは、発表のわずか2時間前
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1971.8 金とドルの交換を停止する「ドル・ショック」が起きた
日本の為替市場が開いた直後に発表され、ドルは暴落、日本経済は混乱した
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1972.2 ニクソン訪中を実現
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1972.5.15 沖縄返還
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基地は存続
沖縄には返還後もアメリカ軍の基地が存続することになった
核、繊維、尖閣諸島、さまざまな課題を経ての沖縄返還だった
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増田(日米関係を中心に外交史を研究 東洋英和女学院大学教授):
沖縄返還交渉は、戦争を終わらせる一大交渉だった
ギヴ&テイクの考え方がニクソンの中にあった
ニクソンからすれば、なぜ佐藤は約束を守らないのかという怒りが出た
Q:米中の交渉については?
日本としては信じて疑わない同盟国ですから、それまで一貫してアメリカ外交の後を追ってきた
アメリカにとっても日本はアジアの優等生だったが、経済力を強めてライバルに近い状態になった
日本はアメリカと敵対していた中国が握手するとは思わなかった
Q:尖閣諸島については?
毛里(現代中国を中心に東アジア国際関係を研究 早稲田大学名誉教授):
台湾はアメリカに捨てられてしまう 将来の安全に対する不安を’70年くらいから抱いていた
増田:
キッシンジャーは台湾の要求を飲むわけにはいかない
沖縄返還協定から外すとなると、日本の反発を招いて、協定の成立すら危うくなるかもしれないという判断で提案を退けた
毛里:
沖縄を巡る日米交渉の中で、尖閣は政治化し、今日まで続くトゲのような存在になっている
「日中国交正常化」
戦後、27年間、日本と国交がなかった中国は、かつて日本との戦争で大きな被害を受けた
日本の経済界は中国市場に注目 1960年代から日中貿易の重要性を訴え
にわかに国交正常化への機運が高まる
1972.7 田中角栄内閣成立 外相の大平は「日中国交正常化」に取り組んだ
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大平:中国側の対日認識、理解も進んでおるように受け取れる 時機は熟した
大平のもとに周恩来からメッセージが届いた
「竹入メモ」
毛首席は賠償請求権を放棄する
尖閣列島の問題に触れる必要はありません
大平の首席秘書官として20年間支えた森田一氏:
賠償があるんだったら正常化交渉はムリだと大平は考えていた
賠償があるかないかだけは特に取り出して確認して
絶対、中国は賠償を請求してこないと確信をもった上で準備を始めた
1972.9.25 田中角栄首相 訪中
北京の空港に戦後、日本の首相として初めておりた
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初日に晩餐会が開かれた
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「私は改めて深い反省の念を表明するものであります」
田中の「ご迷惑」の発言は軽々しいと、中国側が激しく反発
翌日、周恩来は「日中戦争」の被害に触れ、田中の発言は中国人の反感を呼ぶと主張
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大平は、中国の外相に車中で中国の通訳だけを介して2人だけの会談をもちかけた
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タモさん!?
通訳のシュウヒンさんは唯一人の生存者でこの体験を証言しつづけている
シュウヒン:
大平先生が喋った
「私の目で見たあの戦争は明白に中国に対する日本の侵略戦争である
わが日本は何も弁解する理由はない
わが方は、つまり私と田中は最大の譲歩はするつもりだ
こうした心構えがなければ、彼も私も中国には来ません
来た以上は、政治生命をかけて、必要なら肉体生命をかけてやりとおす
これをぜひ周恩来総理に伝えてください」
大平の粘り強い交渉で、共同声明の文案がまとめられていく
訪中3日目の会談で、触れる必要がないという尖閣諸島について田中が発言
<記録>
田中:尖閣諸島についてどう思うか?
周恩来:
尖閣諸島問題については、今回は話したくない
石油が出るから問題になった
石油が出なければ、台湾もアメリカも問題にしない
中国側は、尖閣諸島問題を一時棚上げした
日本政府は、尖閣諸島は固有の領土であり、領有権の問題は存在しないという立場で一貫する
1972.9.29 日中共同声明 調印
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日本側:
日本が日中戦争で国民に重大な損害を与えたことへの責任を痛感し、深く反省する
中国側:
日本の戦争賠償の請求を放棄する
日本と中国は「国交正常化」に至った
森田:
大平は帰りの飛行機の中でひと言
「今はお祭り騒ぎで両国ともいいけれど、30年経ったら結構大変なことになる」
その時、私は中国が発展して、大きくなった時に、例えば周恩来なんかは
「日本は中国の先生ですからいろいろ教えてもらわないといけない」という発言があったが
そういうのも将来は変わるんだろうなと予測しているんだなと理解した
Q:なぜ、ニクソン訪中の半年後に可能になったか?
増田:
1950年代の末から土台づくりがあった
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日中の経済提携を3人が努力していた
これから中国市場を見逃してはいけないと
Q:「国交正常化」の意味は?
毛里:
戦争の問題もあって、日本はなかなかアジアを語れない ある種、足がすくんでいた
「国交正常化」で大陸の中国が賠償を放棄してくれて、対等の関係になれた
普通の対アジア政策ができる条件ができたと思う
日本は新たな役割を求められていく
1970年代 東南アジア諸国と経済関係を深めていた日本
1977 平和と繁栄を目指す「福田ドクリン」を発表
中国との経済交流を進めることが日本外交の大きな課題となる
1978.8 日本は中国との「平和友好条約」の交渉に取り組む
園田外相が北京を訪問 トウショウヘイと会談
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会談の4ヶ月前 100隻以上の中国の漁船団が尖閣諸島近辺に押し寄せる事件が起きた
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会談でトウショウヘイは事件再発防止を約束
しかし、会談記録は公開されず全容を知ることはできない
田島氏は、当時外務省の中国担当として会談に同席
今回、初めてメモを証言した
田島高志 当時 外務省中国議長:
走り書きでメモしたので、私でないと読めませんw
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尖閣諸島についてのトウショウヘイの言葉
「数年、数十年間、数百年おいておいてもよい」
田島:
「我々の世代では知恵がない 次の世代は知恵があるかもしらん
なかったら、その次の世代にはあるかもしらん」というような発言をしました
日本側は中国側の発言に対して、聞き置くに留めたのが事実
事実は向こうが発言して、日本はただ聞いていただけ
きちんと国際法上、実効支配を行ってきた過去の実績があるわけですから
1978.8 日中平和友好条約 締結
これを機に日本の経済協力が本格化
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当時、中国ではようやく「文化大革命」が集結
トウショウヘイは経済の建て直しと中国の近代化を目指す
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1978.10 中国首脳として初めてトウショウヘイ来日
トウショウヘイは高度経済成長期を遂げた日本に目を光らせる
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「新幹線の乗り心地はどうですか?」「速いと思います」
王 当時 トウショウヘイの通訳:
「私の後ろから鞭を持って追っかけているような気がするスピードだ
中国もそういうスピードが必要だ のろのろでは発展できない」
それがトウショウヘイさんの考え方
「日本を中国近代化のモデルにしたい」
トウショウヘイは日本の製鉄所、自動車工場などを精力的に視察
(なにかというとクルマだな
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大平と会談したトウショウヘイは、中国への産業化への支援を求めた
1979.6 日本で初めて先進国首脳会議が開かれた(東京サミット)
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議長は首相に就任した大平
日本は経済大国のリーダーとして、国際社会で主導的な役割を求められる
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1979.12 大平 訪中
中国では「改革開放政策」が始まっていた
この時、大平は500億円もの「政府借款供与」を約束
これにより鉄道や公安設備が拡充するなど飛躍的にインフラ整備が進んだ
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以来、日本の円借款は3兆円を超えた
今回、特別に撮影が許された「大平ノート」
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世界の構造の変化にいち早く着目していた
日本とアメリカを中心としながらも、脱イデオロギー化したソ連、中国などと共存を目指していた
森田:
中国が円満に発展していくことを非常に望んでいて
そのためには、賠償を放棄してもらった関係もあり、円借款も供与するし
もっと分厚い人的交流、文化交流も考えて、発展をできるだけ支えるようにしなければいけない
分厚い日中交流は、分厚いほど時代の変化に耐えられる
「大平学校」
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大平は1980年から日本語教育を育成する事業をはじめる
5年間で延べ600人の日本語教師を輩出し、今は北京日本学研究センターとなっている
日本政府や企業の支援を得て運営される大学院
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教師:
ルソーとかモンテスキューとか、革命思想の源はどこにあるかと言うと
日本というショーウィンドーを通して・・・
卒業生は、日本語教師、学界、経済界で幅広く活躍している
女子生徒:
日本語の先生になりたくてたまらないので
日本語の楽しさについて、もっと勉強したいと思います
女子生徒:
私の母とかは日本のことを知らない もっと知りたいという意欲もない
お互いに理解し合うことがもっとできれば、努力して、いい方向に進められると思います
(女性が多い 若い柔軟な女性の力に期待したい
Q:この時代の日本外交をどう思う?
毛里:
80年代は「日中国交正常化」が成立し、大平氏の援助外交も含めて
日中の経済関係、支援策が比較的うまくいって
エズラ・F・ヴォーゲル氏(著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』)がいう「ゴールデンエイジ」の時代を迎えます
20年間、日本の供与したODAが、中国が受け取った政府借款の42%に達した
それが中国経済を非常に大きくした 結果、今日の世界第2の経済大国として日本を超えて
困るじゃないかってご意見もあるかもしれないけれども
実際には、安定した中国大陸の人々の生活が良くなる、購買力がどんどん上がることは
日本経済に貢献する材料だと思う もちつもたれつの関係ができてきた
Q:この時期の外交から私たちは何を汲み取れるか?
増田:
戦後の日本は平和国家になった 軍事大国の道はもう絶対ダメだと
それに代わる商業的な方向として、経済外交、経済大国があるという消去法ではなく
むしろ、経済外交、経済大国こそ、一番合理性のある方向性だと認識して日本外交はやってきた
気づいたらアメリカからすれば、1989年冷戦の終結で、日本が一番得したのでは
毛里:
戦後の日本が国際社会で論じられる場合、とくにアジア諸国にとっては「発展のモデル」になったこと
単に経済が何%ということではなくて、社会的、文化的にも成長して、非常に大きな安定勢力になった
東アジア全体の安定につながったことが、結果的には日本外交のその後の大きな資産になったのではないか
(経済はふくらんでも、自然破壊、公害問題、原発、過労死、少子化などなど、大きな負の財産もふくらんだけどね
1989 ベルリンの壁崩壊
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戦後、40年間にわたって二分した冷戦
新たな時代が幕を開ける