花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

不要不急の外出を控えて…

2020年03月16日 | 高齢期の生活全般

とに角一日中、「コロナウイルス」のニュースが耳に入る。中国・日本から、今は感染がヨーロッパ各国とアメリカに拡大した。経済への影響も世界的に深刻になって来ている。今後どうなって行くのか、不安である。

私自身、感染拡大の隙間を縫って「インド」へ行って来たが、数日遅ければ、インド入国ができなかったり、帰国時に日本の成田で足止めされていたかも知れないと思うと、ホッと胸を撫で下ろしている。

「不要不急の外出を控えよ」と行政から指示されているし、自覚症状が無くても、ひょっとして私が旅行先から「コロナウイルス」を持ち帰っていたら大変だと思い、念のために帰国後2週間、自宅にいた。体温を測ってもずっと36℃以下だったし、うがい薬でうがいもしていた。

帰国後、特にする事が無いので、「大型ゴミ」を市の回収車に出す事にした。

先週は古くなって最近調子が悪い「ステレオコンポ」を4つに分けて出した。今は無い「コロンビア」製のもので、音が良いのが気に入ってたいまいはたいて買った物だ。

持ち上げて見たら「アンプ」も「スピーカー」も物凄く重い。この「コンポ」を買って以来引越しを3回したので、過ぎたこととは言え、運んでくれた業者の方の苦労を思った。

毎日、朝の支度をしながらラジオを聞いたり、好きな音楽を掛けて十分楽しんだので、買った時は高価だったが、元は取ったと思っている。

また、もう乗らないと思う「自転車」も思い切って出した。知人の女性2人が自転車で転倒して骨折したことも、自転車をやめる理由だ。眼もバランス感覚も少し悪くなって来ているので、捨て時だと決心した。

そして今日は、「木綿わた」が入っている「掛け布団」2枚と「敷き布団」2枚を出した。

「掛け布団」はまだ比較的新しいが、「羽毛布団」を愛用し出したら、「木綿わた」の布団は重く感じて駄目なのだ。また、「敷き布団」は、ベランダの柵に掛けて日干しする際、持ち上げるのが大変だったからだ。

これで物置と押入れに少し隙間ができて良かった。

また、日差しが強くなって来たので、少し早いかなと思ったが、一昨日は、「ジニア」と「ニゲラ」の種を買って来てポリポットに蒔き、日が当る南の窓辺に置いた。

昨日は、昨年の余り種の「レタス」と「茎ブロッコリー」を蒔いた。

今年のガーデニングが始ったのだ。どれも発芽するのが楽しみだ。

  

          

 

 

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従姉の事後報告(1)

2019年12月30日 | 高齢期の生活全般

翌日の朝、従姉に電話を掛けた。

「病院に行って、物忘れの検査をして貰った方が良いのではないだろうか。」と言いたかったのだ。ところが私が話し出すと、従姉も少し遅れて大きい声で話し出す。私の声と従姉の声がぶつかって、何を言っているのかさっぱり分からない。

全く私の話に聞く耳を持たないので、「私の話を聞かないでしゃべらないで、聞いてから言いたいことを話して頂戴。こんな電話の受け取り方は失礼でしょう!」と言って電話を切った。

そして次の日、ネットで従姉の家の近くにある「物忘れ外来」の病院を調べ、そのことを伝えようとまた電話した。

すると前日とはうって変って、大人しく聞いてくれた。そして従姉が「私がそんなに進んでいるように思うのかい?」と聞かれたので、「そうじゃなくて、できるだけ早くに病気が分かれば、薬で進行するのを遅くできるからだよ。」と答えた。

従姉は「分かった。来月になったら病院に行って見るから。」と言ってくれた。嬉しかった。本当は従姉自身が、物忘れが多くなった事を誰よりも不安に思っているに違いないのだから。

                                  

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久し振りに従姉が来て年賀状をつくる

2019年12月26日 | 高齢期の生活全般

昨日は一日中、最高気温も-5℃程度と寒い日だった。

札幌に住む私よりも5歳年上の従姉から、数日前に今年の「年賀状」の編集を頼まれた。直ぐにデザイン作成に取り掛かり、その日の夜に「デザインは完成したよ。印刷できるので、何枚印刷するか決めて、数日以内に家に来て下さい。」と電話をして置いた。

ところが一向に来る気配が無いので、昨日朝、どうしたのか問い合わせた。すると、「デザインができたという連絡が無かったので、まだかと思っていた。」とチグハグな返事だ。

「印刷枚数は何枚か決まったの?」と聞くと、「昨年通り、印刷してくれたんじゃあないの?」と来た。「頼まれていないのに印刷するはずが無いでしょう。とに角来て、デザインや文章を確認してよ。」というと、寒い中、午後にやっと来た。

彼女とのやり取りを考えると、記憶力が凄く低下した事がわかる。1年3ヶ月振りの来宅なので、札幌駅よりも向こうの駅からJRに間違いなく乗れるのかも心配だったし、我が家へは駅から5~6分の単純な道なのだが、間違えずに来れるかも気になった。

しかし何とかやって来たので、先ずはホッとした。

彼女にパソコンで作って置いた年賀状の原稿を見てもらって、彼女が言うとおり、数箇所を手直しした。

それから二人で郵便局に行って、見本を見ながらどれを買うか決めてもらおうとしたが、なかなか決められない。

私が、「インクジェット式でないとパソコンでの印刷が上手く行かないよ。表の切手部は、大人絵がいいのでは?」とアドヴァイスしたら、それに従った。

最後に何枚にするかもまだ決めてない。「去年は数枚足りなかったらしいから、去年と同じでどう?」と言うと、「そうする。」と言って、やっと買った。

家に戻り、プリンターを動かそうとしたが、5つのインクの内4つが立て続けに「交換が必要」と出た。そんな事もあろうかと、先日、電気店に行き、新しいのを買っておいて良かった。キャノンの「純正インク」は、セットで6900円した。インクは高い。

無事にプリントが済み、お喋りした。

従姉の方から「死後の墓の事、喪主のこと、相続の事をどうしたら良いかと思っている。」と話し出した。

そこで私から、「独身者の相続人は、法律では親と兄弟姉妹だから、あなたは両親が亡くなっているので兄弟姉妹だけになるね。全部で10人近くいるし、既に亡くなった兄弟姉妹はその子が親の代わりの相続人になる。物凄く大勢だし、どこに居るかも判らない場合は困るね。」と私がいうと、「遺産は少ししかないから、全然問題ないよ。」と言う。

「例え少しでも、相続人全員の了解がなければ、貯金も下ろせなくなるよ。それに今住んでいるマンションはどうするの?」と話した。彼女は法律的な知識を持っていないようだった。

80代になり、物忘れが頻繁になって来ているので、元気な今の内にまさかの時の事を考えて置かねばならないのだが、「明日死ぬわけではないし…」と、切羽詰っていないので他人事の様に具体的な話を拒絶する。

私は彼女に、せめて先ず法的な決まりを知る事、そして自分はどうするのが良いかを考えて置く事を勧めたが、様子からして思考力も低下して来ているようで困った。どうしたら良いだろうか。

その点、伯母は実に立派だった。何十年も暮らした町を引き払い、私の所に来ることが決まった94歳の時、自分で「公証役場」に出向いて「遺言書」の公正証書を作っていたのだった。

もしも「遺言書」が無ければ、血の繋がらない「姪」の私には、伯母の財産管理をしながら最後まで介護を引き受けたとしても、遺産には一切の権利はない。そして「法定相続者」は、40年以上前に一人息子と離婚した女性が「親権者」となって育て、ほとんど連絡が取れていなかった「亡くなった息子の遺児(伯母の戸籍上の孫)」という事になる。伯母はそれを心配して、「遺言書」を作ったのだろうと思う。

(この男の孫は、どこで何をしているか40年以上ずっと分からなかったが、息子が亡くなった後で私が市役所に行って手続きをし住所を探してもらった。半月後、住所が分かったと言う連絡があり、彼と連絡を取って、一度伯母に引き合わせていた)

夕方になったので、冷蔵庫にあった肉とホタテに野菜を加えて「焼き蕎麦」を作って食べて貰った。彼女はホタテが美味しかったらしく、残しておいて最後に食べていた。

夜、別な用事があるといって、彼女はJRで帰って行った。暗くなったし道が滑りやすいので、駅迄車で送った。

                                       

 

 

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高齢者にとって操作が厳しいデジタル家電類

2019年12月03日 | 高齢期の生活全般

昨日、「ガス暖房」の不具合が起きたので修理してもらった。

その後、操作盤がリセットされたので、現在時刻、自動点火時刻、自動消火時刻、燃焼の強度など設定し直すことになった。

ところが操作版が小さく、操作ボタンが小さすぎる。視力が低下しつつある私には文字が見難いし、操作しなければならない項目も沢山ある。そして、一々「決定」のボタンを押さなければならないなど、とても煩わしい。一つの事ができなければ、前に進むこともできないのだ。

この「ガス暖房」は、暖房だけでなく、我が家の風呂も給湯も一台で賄うものなので、尚更、操作が煩雑で参ってしまった。高齢者にはもっと操作し易いアナログ方式が良いのにと思った。

今は「シャワートイレ」や灯油や電気の「ストーブ」、「テレビ」から「電話機」「時計」に至るまで、全てがデジタルで操作する仕掛けになっているが、高齢者の事を配慮しているとは思えないデジタル家電製品の見難く複雑な取り扱い方に我慢するしかないのだろうか。

何とか「ガス暖房」の設定操作をし終えたが、つくづく思った事だった。

                                   

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当地は晩秋

2019年10月11日 | 高齢期の生活全般

日本列島に「超大型台風19号」が近づいている。

前の台風で、屋根が損壊して青色ビニールで一時しのぎをしている家屋に住んでいる方々は、今回また立て続けに暴風雨に見舞われるわけで、気が気でないだろうと推察している。何とか台風の進行方向が、日本列島から少しそれて欲しいと願うばかりだ。

私も菜園の片付けに勤しんだ。特に支柱を立ててある背が高い作物が心配だったが、幸い収穫時期に達している僅かばかりの「虎豆」は、一昨日に収穫して、支柱やつるを片付けた。今日はもう収穫が済んだ「トマト」を先程片付けた。スズランテープであちこち茎を支柱に縛ってあったので、それを全部解いて除去するのに手間がかかり、結局「トマト」の片付けには一時間かかった。これで暴風雨が吹き荒れても、菜園の心配は無くなった。

 

毎日の「ウオーキング」は、歩き始めて今日で連続81日目を迎えた。

今は「ポケモンジム」になっている公園を毎日幾つか巡っているが、公園の木々の葉が紅葉し出し、落ち葉が沢山落ちている様子に秋の深まりを感じる。

原始のままの雑木林を残してある公園では、「どんぐり」が沢山落ちている。落葉樹の葉も落ちて、すでに積み重なっている。

      

公園の「姫りんご」の木には、赤い可愛い実が沢山ついている。また、市街地の「ななかまど」並木では、実がすっかり赤く色づいている。

     

この連休中に北海道では初雪の予報も出ている。そろそろ「冬タイヤ」と「冬用ワイパー」に交換する予定を立てなければならない。日の入りの時刻も随分早くなった。この所、何か追い立てられるような忙しない毎日だ。

 

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ただ今、ウオーキング中

2019年09月29日 | 高齢期の生活全般

実は以前、「9月になったら、アメリカに旅に行きたい」と書いたことがあったが、どうしても足腰に自信が持てず、キャンセル料が掛からないぎりぎりの所で旅行社にキャンセルの連絡を入れた。

その代わりに足腰のトレーニングを目指してウオーキングをし出したのだが、7月24日から毎日「1万歩を目標」に今日で68日続いた。我ながら良くやったと思う。

最近は朝の気温が低くなって来たので、袖の無いパーカー?を羽織り、弱い左の足にサポーターを巻いて、気分良く歩いている。

今日は途中から雲行きが怪しくなり、今にも雨が降り出しそうだったので「ポケモンゲーム」を程ほどにして急いで歩いて帰宅したら、1時間のウオーキングで5800歩だった。昼から買い物に出かけて歩き、何とか1万歩を越えた。

休み休み「ゲーム」をしながら歩いていると、2時間位のウオーキングは平気になり、歩く事に少しずつ自信が付いて来た。

しかし、体重はさっぱり減らない。その内に減り出すのだろうか。

歩く途中で、私よりも10歳ほど年上に見える男女や肥満気味の男性を見かける。私と同じく、皆、自身の健康の為に努力しているのだろう。

また、毎日町を巡り歩いていると、分かることがある。

私が歩くコース中には、市の公園が5箇所あって、その大半の公園にトイレと水を飲める水道が用意されている。いつ災害が起こっても、住民の一時避難場所になると思われるが、冬場の北海道で災害が起きることを想定すれば、屋根があり、暖房設備も整っている屋内避難場所が必要だ。しかしその数は、まだ間に合っていないように思う。

それから家の庭に植えられている花の種類だが、当地では「マリーゴールド」と「ベゴニア」が最も多いようだ。恐らく一番手が掛からず、花期も長いからだろう。最近は「秋明菊」「ヒャクニチソウ」「コスモス」も綺麗に咲いている。

私の様に「薔薇」を植えている家は、コースの中では数軒だ。中には折角の「薔薇」を放置しているので、花があまり咲いていない庭があって「花殻を摘むといいのに…」と残念に思いながら通り過ぎる。

それから雑草を見ると抜きたくなる私の癖で、たまたま線路の遮断機が下りていると、開くのを待つ間に道路わきの雑草を抜く。歩道にイネ科の植物が生えていると、種ができて飛んだら厄介だと思って、抜くこともある。

                              

 

 

 

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友人の肥料などの買い物に同行

2019年04月16日 | 高齢期の生活全般
今の地に引っ越して来て以来、同じく花作りが好きで、色々私の話し相手になってくれる近所の先輩は、今では私の大切な友人の一人になっている。

しかし、その友人の80代の夫君が「認知症」の兆が出たため、持っていた車を手放してから2年程になる。
それ以来、私が車で買いだしに行く時は、なるべく彼女に声を掛けるようにして来た。

ようやく雪が溶けたこの時期は、芽を出して来た木や花に堆肥や化成肥料を与えなければならない。友人から「まとまった量の肥料などを買出しに行きたい。」と言われていたので、昨日、雨の合間に2人で近くの農協に向った。

私は欲しかった「虫除けネット」が無く、日除けの「農作業用麦藁帽子」だけを買った。通気性に優れているので重宝しているものだ。
彼女は、堆肥30L、化成肥料20kg、菜種油粕20L、牛糞堆肥30L、ビニール紐2巻き、農薬類数種類、ジョウロなどを買った。代金は締めて1万円以上になった。
農協の倉庫前に車を停めて職員に積み込んでもらい、荷下ろしは二人で彼女の家の物置前でやり、全てを物置に入れた。
大量なので重たいし、やはり車が無いとできない買い物だった。私の車が、また役立って良かった。

昨日雨が降ったので、大地が丁度良い湿り気となった。私はホームセンターで買った「アマリリス」の球根を植えた。
お互いにこれからの庭仕事が楽しみだ。

                                    


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親友に会いに行く

2019年03月31日 | 高齢期の生活全般
昨日昼過ぎ、友人と待ち合わせのいつもの「回転すし店」まで車を走らせた。
土曜なのに国道は凄い車の列。年度末なんだと実感した。
1時少し前に寿司屋に入ってこれまたビックリ。40人近く待っている人がいた。
先に来ていた友人とは半年振りの再会だ。

友人は92歳の姉と88歳の兄の介護に通っていたが、手術した兄を、昨日退院させたと言っていた。
2人の介護は大変な事だろう。心なしか髪が伸びて、顔も疲れているように見えた。

私に伯母の葬儀をどうやったのかと聞かれた。自分の葬儀の参考にしたいのだそうだ。
最後は多分自分が「一人暮らし」という女性は多い。今回私が経験した「伯母の葬儀」を話した。
そして、この所何冊かの本で分かった話をした。
葬儀のやり方も心配な事だが、先ずは「孤独死」に備えて、誰に「家の鍵」を頼んでおくかが問題。
「財産相続」は、遺書を作って置く事。「葬儀や墓」の事なども、身近な人に託して置く事。「延命措置」の有無もだ。
そんな事を2時間ほど話し合って分かれた。
                             
私は、先日から家を整理していて、多く溜めすぎたと思った保存食品の幾つかを彼女に分けてあげる事にした。
「鰯の缶詰」や「レトルトご飯」「振り掛け」「茶碗蒸し」「林檎とデコボン」「チーズ類」などと、出かける前に漬けたばかりの「白菜ときゅうりの浅漬け」を紙袋3つに入れて持参し、土産代わりに渡した。
まるでいつも娘に渡すような雑多な「生活用品」だが、経済的にも余裕が無い「一人暮らし」の彼女は、喜んでくれただろうか。

最後に4月下旬に「日帰りバスツアー」への参加を誘った。珠には楽しまないと身が持たない筈だから。
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伯母の葬儀後の事(8)彼岸のお供えは「お汁粉」も「ぼた餅」も

2019年03月22日 | 高齢期の生活全般
昨日は伯母の初彼岸だったので、前日から小豆を煮て、朝、餅を入れて、伯母が好きだった「お汁粉」を作って供えた。
昼近くになったら、友人が「伯母さんが好きだったから」と言って、手作りの「ぼた餅」を沢山届けてくれた。手間が掛かるのにわざわざ作ってくれた事を考えると、実にありがたい。
両方を供えたので、伯母は驚いていると思う。昨日は、私自身も小豆を沢山食べた。
まだ「ぼた餅」が残っているので、今朝も食べる。

昨日あたりから起床時の居間の温度が16度に上がって来て、寒さを感じなくなった。確実に春がやって来たようで嬉しい。
庭の雪も、今日中には消えそうだ。
                        
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伯母の葬儀後の事(5)刺繍のブラウスをリユーズ

2019年03月01日 | 高齢期の生活全般
1枚、見た事が無い刺繍の夏用綿ブラウスがあった。
これをどのようにるリユースするべきか色々と考えた。
刺繍部分を上手く切り取って、花瓶敷きにしようかとか、無地の布に貼りつけて、手提げ袋を作ろうかなど…
結論は、ほとんどそのままの形を維持したまま、裏側から裾以外の三箇所をぐるりと直線縫いして表に返し「食卓椅子のカバー」を作った。
そして、いつも伯母が座っていた椅子の背を覆って見た。良い感じだ。
伯母も、こんな日があるかと思って捨てられずに持ち続けていたのかも知れない。
これで元気だった時の伯母を偲ぶ事にしたい。

         

伯母の遺品の片づけは大方できたが、まだ少し残っている。
片付けながら、私自身のその時を考えさせられる。この家一杯に物があるから、片付ける人はきっと大変だろうと思う。
やはり、少しずつ始末をするべきなのだろう。
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伯母を家族葬で送る(行年101歳)

2019年02月06日 | 高齢期の生活全般

伯母は、2月4日朝7時16分、入院先の病院で亡くなった
遠因は「脳梗塞」で、死因は「老衰」と診断書にあった。満年齢で99歳1ヶ月だった。

私が病院から連絡を貰って駆けつけた時、1分遅かったと看護婦に言われた。
しかし、その前日も見舞いに行き、伯母の大変な様子は十分に感じていた。また、それまでの伯母とのやり取りから伯母自身の覚悟を知っていたし、私も医療行為とは言え、なかなか入りにくくなった点滴の針を伯母に射したり、詰まりそうな痰の吸引などを見て、これ以上伯母に辛さを我慢させるのも限界だと思い始め、医師に「痛い思いをさせないで欲しい。」と頼んでもいた。
医者には「急だったけど、眠るように静かに亡くなった。」と聞かされた。
伯母に会って「やっと8か月もの辛かった闘病生活が終わったね。お疲れ様!」と声を掛けた。
伯母の身体はそれから2時間近く温かだった。

葬儀は、伯母と話し合っていた通り、式場を借りず、通夜や葬式を行わない自宅での「家族葬」にして、出棺後、最後に火葬場での「火葬式」だけを行う事にした
なので葬儀社に伯母を病院から我が家に搬送してもらい、伯母が暮らしていた居間の隣室に安置した。
その後、身内数軒に電話で連絡したが、私の妹以外はいずれも高齢だったり、病気療養中で行けないと言われた。

伯母を安置した後、私は一人であちこち飛び回り「家族葬」の準備をした。
先ず、沢山の献花を買って来て祭壇に飾った。花は伯母の希望通り白色以外に黄色やピンク、青色の花も混ぜた。
また、この数年撮り溜めた伯母の写真をパソコンからUSBに移して写真店に行き、プリントし、写真立てに入れて「遺影」とした。その他数枚を組み合わせて「思い出の写真パネル」を用意した。これには夜までかかった。

歌が好きで毎日口ずさんでいた伯母だったので、お経の代わりに「音楽葬」を考えていた。
結局、家にあった「鮫島由美子」の「日本の歌ベスト」のCDをバックグラウンドに静かに流し続けた
「カラタチの花」「カナリヤの歌」「浜辺の歌」「この道」など、ソプラノの歌曲が静かに流れ、雰囲気にピッタリの音楽だった。

また昨年、伯母が元気だった時に、二人でお釈迦様の元に行くための「戒名」を考えて決めてあった
伯母の婚家の宗派のお寺を見つけ、事前に住職に「火葬式」のお経を上げて欲しいとお願いしてあった。
快く引き受けてもらえたので、葬儀社から受け取った白木の「位牌」を持ってお寺に向った。

夕方、伯母が入院して以来、心配してくれた 近所数軒を回り、死去を知らせ、香典、お花代などを遠慮したいという故人の遺志を伝えた。そして、明日の出棺前に時間が許すならお焼香だけをしていただきたいとお願いした。
近所の方々が夜と翌朝に次々と我が家を訪れ、焼香をしてくれたが、夫婦で来て「般若心経」を唱えてくれた方もいて感激した。

亡くなった夜は、伯母から何回かに分けて話してもらって記録してあった「伯母の人生」を「聞き書き」としてまとめ、A47ページの冊子を作った
これは身内にのみ渡した。寝たのは24時だった。

昨日は、朝、伯母に化粧を施し、葬儀社が持って来た棺に納棺後、伯母が好んで使っていた綺麗な色のシルクのスカーフ3枚と花で顔の周りを飾った。
火葬場に着くと先にお寺の住職が来ていて、「位牌」に立派に「戒名」が書かれたのを渡された。裏を見ると「行年101歳」と書かれていた。
お経を上げてもらい、短時間だったが厳粛な「火葬式」を済ませることができ、お寺に心から感謝した
「火葬」には1時間50分かかった。その後、お骨を拾って骨壷に納め、自宅の祭壇に置いた。

それから妹夫婦とレストランに行き、「供養」と「精進落とし」の膳を囲んで、全ての葬儀を終えた。

伯母は大正時代に生まれて以来、ひたすら自分の境遇に従順に生きながら、力の限り働き、決して努力を惜しまず、最後まで周りの人を気遣い、平成最後の年までの1世紀を立派に生き抜いた。
私は、その伯母の人生最後の数年間の日々に、微力ながら寄り添えた事は幸せだった。
と共に、私も伯母の人生から学んだ多くの事を、残りの人生に活かしたいと思っている。

伯母さん、お疲れ様でした。そして有難う!   

                         

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白寿の伯母の近況(3) どんな葬儀になるかが心配だと言う

2019年01月23日 | 高齢期の生活全般

伯母を見舞った時はいつも「今日の具合はいかが?どこか痛い所などない?」などと聞く。
先週行った時、「何か心配な事はない?」と言うと、「私の葬式はどうなるんだろうか。」と聞かれた。

突然の展開で私は一瞬たじろいだが、「そうだね。私も最近考えているんだけれど、まず参列者が何人位になりそうかな?」と言った。
「伯母さんの妹さんは足腰が悪いと言うから、無理かもね~。」
「伯父さんの兄弟は、たった一人残っているけれど、もう年で認知症気味だというし、本州から来るのは無理かもね~。」
「そうなると、私と妹と娘などの数人かな?だから、葬議場を借りても広過ぎて、逆に寂しいかもね。」と言った。
「伯母さんは、親から長生きの遺伝子を受け継いで誰よりも長く生きて来たから、残念ながら家族や姉妹の皆は先に亡くなってしまったんだよね。長生きは良い事だけど、寂しいこともあるね。」
「私の家で、伯母さんが使っていた部屋は居間と続いていて広くなるから、家でゆっくりと『家族葬』するのはどう?」と話すと、「いいね!」と賛成してくれた。

ついでに献花の事も聞いて見た。

「お葬式は普通は悲しい事だけど、伯母さんは素晴らしく長寿だから、それをお祝いしたい気持ちもあるよ。だから、祭壇の花は白菊ばかりではなくて、色とりどりの明るい花を沢山飾りたいね~。」と言うと、「いいね!」と言ってくれた。
そして「全部お任せするわ。」と言った。

「お経を上げてもらいたい?それとも、伯母さんが好きな音楽や歌のレコードをかける事もできるよ。」とも言ったが、それには返事が無かった。
最後に「伯母さんが思いついた事があったら、いつでも言ってね。」と言って終った。

翌日行った時に、「今は一番寒い時だけど、もう少ししたら花が咲く暖かい春が来るから、伯母さんには頑張って欲しいよ。」と言うと、「頑張るよ。」と答えてくれたので嬉しかった。

この事があってから、きっと伯母は自分でも、人生が徐々に終りに近づいて来ている事を悟り始めているんだろうなと思った。
また、私に「そろそろ葬儀の事を考えておいた方が良いよ。」と言いたかったのだと思う。
そして、改めて私は、最後まで伯母の人生に寄り添い、見守りたいと思ったやりとりだった。

                                

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白寿の伯母の近況(2)すっかり筋肉が落ちた

2019年01月15日 | 高齢期の生活全般

伯母は自力で排尿ができ難くなったといって、昨年11月上旬から「経管導尿」に切り替えられた
それから2ヶ月が経ったが、オムツをし、ベットから降りて簡易トイレに座る事が無くなった事で「寝たきり」になり、急激に足腰を始め全身の筋肉が落ちた自分ではもう立つ事は難しいし、顔もすっかり痩せて、見る影もない。

前回髪を切ってから1ヵ月半が経ったので一昨日、床屋をしたが、その間、ベットの上で自分の上体を維持する事ができずに次第に傾いてしまうのだ。 そのため襟足の髪を切ったり、整えたりが十分にできなかった。
今まで襟足の無駄毛を剃刀で剃って上げていたが、細い首の動脈が浮き出ていて、傷付けるのではと心配だった。もう、襟足を剃るのは無理だと思った
それでも全体の髪を1.5cm近くカットしたので、すっきりと見えるようになった。

また先日は「息子の名前をいくら呼んでも、来てくれない。どこに居るの?」と聞かれた。
私は伯母に「もう8年も前に亡くなったでしょう。思い出して頂戴。」と話した。
私の名前を聞くと「〇〇さんでしょう。忘れてしまったら終りだわ。」と言った。

伯母に時間の観念が無くなって来ているので、私は行く度に今日の日にちを教えるのだが、その度に伯母は「早いね~。」という。

手指が時々浮腫んでいる。腎臓の機能も落ちて来たのかも知れない。
最近はお茶を自分で飲まずに、私がスプーンで飲ませることも増えた。

でも、「結んで 開いて」の様な指の運動をさせると、してくれる。
自分から会話をする事は少なくなったが、私が「帰るから。」というと、「有難う。」とお礼の言葉は忘れないで言う。

今、一年で一番寒さが厳しい時だ。伯母には何とか暖かな春を迎えて欲しい。

                                                 

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白寿の伯母の近況(1)食事の介助

2018年12月21日 | 高齢期の生活全般

病院の決まりで「面会は午後1時から」だったので、今までは昼食時間を除いて面会に行っていたが、昨日は用事があったので11時半に行った。
丁度ベッドを起こされて、セットされたテーブルに昼食のトレイが来ていた所だった。
少し前までは、自分でスプーンを持って食べていた筈だったが、昨日は、ヘルパーさんに頼まれて、私がスプーンで一口ずつ食べさせた。いつの間にか食事は介助が必要になっていたのだ。

ご飯もおかずも全てミキサーに掛けてから「とろみ剤」を加えたどろどろの食事だ。
緑色のものが入った器とオレンジ色のものが入った器なので、多分、「青菜」を茹でてミキサーに掛けたものと、「人参」をゆでたものだろうと推測した。白いものが入った小皿は、デザートの「林檎」を摩り下ろしたものらしかった。
伯母は全部食べた。最後に「摩り下ろしりんご」らしいのにヘルパーさんが「薬を混ぜて」食べさせてくれた。

その後、入院後初めてサインペンを持たせて紙に字を書かせて見たが、指に力が無く書けなかった。
おまけに自分の苗字の易しい漢字の書き方を忘れていた。ショックだった。
入院前には、小学校で習う「教育漢字」を、B2の鉛筆で全部「漢字練習帳」に書いていたのに、ベット生活が半年を越すと、予想していたよりももっと早く筋力も脳も退化するのかと驚いた。
しかし、伯母には私の驚きを悟られないようにして、その後、幾つか会話してから退室した。

                          
            (昨年10月27日の写真。「教育漢字練習帳」1026字を練習中の伯母。
             5月には6年生までの漢字の練習を完了していたのだが…)

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白寿を迎えた伯母と、彼女の人生

2018年12月14日 | 高齢期の生活全般

「脳梗塞」を起こし5月からの入院生活が7ヶ月に成ろうとしている伯母が、一昨日病院のベッドの上で満99歳の白寿を迎えた。
この間「誤嚥性肺炎」「尿管結石」「狭心症発作」を起こしたが、病院が直ぐに原因を見つけて処置してくれたお陰で、それら全ての病気を乗り越えた。
長期の入院で体中の筋肉が少なくなり、痩せたが、食事はミキサーに掛けた流動食を自分で食べている。
また、時々物忘れはあるが、基本的に頭ははっきりとしている。

誕生日の前日、何か欲しいものや、して欲しい事があるかを訊ねると、伯母は「自分はもう何も要らないけど、毎日世話になっている病院の看護婦さん達に日頃のお礼をしたい。」という。
それで私は、皆さんに行き渡るようにと「蜜柑」を2箱用意して、誕生日に事務室に届けた。
伯母に報告すると、凄く喜んでいた。

小柄な身体の伯母が99歳を迎える事ができたのは、先祖から受け継いだ「長寿遺伝子」と、伯母が粗食に耐えながらも、小さい時から「ずっと働き通した生活習慣」があったからだと思う。

「伯母の人生」 を大まかに記録して置く。(同居し出してから聞き書きしたものだ)

誕生日は、大正8年(1919年)12月12日(金)北海道空知地方の農家の次女として生まれた。

  この年は、1月に「ロシア・ソビエト社会主義共和国」が樹立する一方で、第一次世界大戦の終結に関する「パリ講和会議」が開かれた。
  3月には、朝鮮で日本の植民地支配に抵抗する「3・1独立運動」が起きた。4月に「関東軍」が設置された。
  10月には、孫文らが「中国国民党」を創立している。

しかし、伯母は小学生の頃に父親を亡くした。かまどでの炊飯は小学2年生の時からやり続けた。
4人の幼い子どもがいて一人で農業をやれなくなった母親は、他家に再婚し、そこで農業を営んだ。それで自分は小学校3年生の途中で学校を止めて、親戚に「子守」に出た。他の兄弟姉妹も、祖父母の所と母親の所に分けられた。
「子守」をしていた2年半後には祖父母の家に引き取られて小学校6年に入ったが、また途中でやめて母親の再婚先に引き取られ、そこで母親と暮らす事になった。
結婚するまで母の家にいて、農作業や家事を手伝った。

昭和16年(1941年)、23歳の時、親が結婚を決めて来た。
3月に結婚したが、義父からは「何があっても、決して婚家から戻って来たら駄目だ。」と言われた。
密かに好きな人がいたので、前の晩は泣き通した。
相手の顔も知らずに結婚したが、夫となった人はやさしい人で安心した。
婚家は大家族の農家だった。結婚の翌朝から10人分の食事作りをした。

この年の12月8日、日本がアメリカに宣戦布告して、「日米が開戦状態」になった。
夫は、結婚前にも1度戦争に行ったらしいが、結婚した年とその後と更に2回、計3回も兵隊に行った。心配したが、無事に戻って来てくれた。
しかしその後も、炭鉱に「徴用」された。

水道は無かったので「井戸」端でしていた家族の冬の洗濯が辛かった。干しても皆凍ってしまった。
冬の暖房用の石炭は、毎年、夫と畑の向こうの川に拾いに行った。上流の選炭場から流れてきた石炭だったが、寒くて重労働だった。
井戸水が枯れた事があったが、その時も川に行って水を汲み、運んだ。

終戦後、親戚が5人、朝鮮から引き上げて来て同居し、世話をした。その時は漬物を沢山漬けて、お菜にした。
夫の3人の妹は、皆女学校を出ていたので、満足に学校に行かなかった自分は、いつも劣等感で小さくなっていた。

70過ぎに目が悪くなり、白内障の手術を受けた。80歳過ぎには、耳が遠くなった。
自分達には子供ができなかったが、とに角農業は66歳まで、家庭用野菜を作る畑は80歳過ぎまでやったから、働き通した。
51歳の時に姑(79歳)を、52歳の時に舅(83歳)を、相次いで家で看取った。
90歳の時、94歳の
夫を家で看取った。

その後、田畑を手放し「高齢者専用賃貸住宅」で4年ほど暮らしたが、自炊ができなくなり、姪(私の事)が面倒を見てくれる事になって、今に至っている。
入院前も、してからも、「幸せだったのは何時でしたか。」と誰に聞かれても、伯母は「姪に世話になっている今が、一番幸せだ。」と答えていた。

今後の伯母の希望は、延命治療は受けずに、自然に死にたいと言うので、主治医には伝えてある。

いつまで元気でいてくれるか分からないが、現在目も耳も閉ざされている伯母の為に、私は会うたび、耳元で話し、なるべく色々な会話をするように心がけている。

          
(この写真は昨年の誕生日に家で撮ったもので、伯母が私からのパジャマなどのプレゼントを開けているところ。着ているベストは伯母の手編み)

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