どこかに書いたが、私は両親との縁は短い方だった。父は私が8歳、母は28歳の時に亡くなった。だから若い頃から、命のはかなさは良く分かっていたので、何事も今を大事にした生活を心掛けて来たつもりだ。
したいことは我慢せずにする。それには大抵、経済的な裏付けが必要なので、自分ができる仕事をしっかりとやり続け、安定した生活を目指す努力をして来た。
保育所の無い地域で小さな子どもを抱えながらフルタイムで働いた時は苦労したけれど、子どもは5年経てば小学生になり、楽になると考えて頑張った。
考えてみると、確かに私が乳癌になったのは、不幸な事だったと言える。
しかし、必ずしもそうばかりではなかったのだ。
命は有限で、人は誰もがその人の寿命の終わりに向かって、一日々々確実に進んでいるのだということを実感できたからだ。
だから、今日の一日、明日の一日を生きられる事が嬉しい。
そして、いつ私の死がやって来るかは分からないけれど、それまでの間、精一杯、自分なりの満足できる生き方を目標にして充実した生活をしたいと、一層、強く思うようになった。
そして、例え、平均寿命よりもずっと人生が短くても、一年を人の1.5倍、いや2倍、意味ある様に生きればそれで良いと思うようになった。
もし病気にならなければ、私はきっとこんな考え方を持てずに、漫然と毎日を過ごしていただろうと思うと、病気から大きなプレゼントを得たと思っている。
話しは変わるが、退職後はマンション住まいに見切りをつけて、戸建てで庭いじりをしたいと思い、数年前に今の宅地を買って置いたのだが、予想外の病気によって家を建てるかどうかも、随分、悩んだ。
医者にも相談したが、「自分で決めて下さい」と言われ、それならまだ少しは元気で生きられるのだと受け取った。
そして、数年間元気でいられるなら、そこに家を建てて、私が一番したかった庭仕事をしようと考え、実行したのだ。だから、お金はすごくかかったけれど、私が寝込んだ時の事を想定してバリアフリーの家にしたのである。(詳細はブログの「私が建てたバリアフリーの家」参照)
お金も物も、生きている間に有意義に使うべきだと思う。死んだら何一つ持って行く事はできないのだから。
二人の子どもには自立できる教育をしたので、財産など残さなくても良い。それでも結果的には不動産など、少しは残ってしまうだろうが。
また私は、もう一般の生命保険には入れないが、病気になった時はこれまでの少しの蓄えと公的な医療保険で何とかやって行けると思う。(この間の6日間の入院と手術、通院治療費を合計すると、3割負担分だけで80万円近く払った。幸いに、もし70歳になれたら、医療費も今よりは安く済む筈だ…と考えている)
旅行で見聞を広げる事も趣味なので、元気な内に行きたいと思っている。年に2回位の外国旅行もしたい。
後何年、元気で居られるだろうと考えると、やりたい事が一杯なのだ。今、それらをやれる幸せを噛みしめて暮らしている。
手術自体には恐れは全く無かった。
麻酔がかかってから先ず受けた脇のセンチネルリンパ節精検の結果、幸いな事にリンパ節には転移していなかったので、がん組織を完全に除去するだけの手術で済んだ。
(少し前までは、手術の際、必ず脇のリンパ腺も切除していたが、術後の副作用が大きいため、事前にリンパ節に転移しているか調べて、転移していなかったら切除はしないという治療法がセンチネルリンパ節精検。その病院では、私の手術の1週間前からこの方法を採るようになったと聞き、幸運な巡り合わせだった。)
しかし、手術後初めて病院に行った時、医者から、摘出した組織を検査した結果、私の場合、再発・転移しやすい質の悪いがん細胞だと告げられた。
手術は乳房温存手術だったので、手術から1ヶ月後に6週間余りの期間、放射線治療に通院し、その後、抗癌剤治療を受けた。
いずれもきつい副作用があった。
特に最初の抗癌剤を投与されてから2週間後に、僅か3日間ですっかり脱毛してしまった時は、覚悟をしていたとはいえやはり凄いショックだった。その内、眉毛も抜けて容ぼうも変わったが、丁度、冬だったので、外出の際は毛糸の帽子を深めに被って過ごした。
(頭髪が生えてくるまでの半年以上、家の中でも常に自分で作ったキャップを被っていた。髪が生えそろうのには1年数ヶ月かかった)
こうして一通りの術後治療は終わったので、現在は3ヶ月毎に検査のために通院している。
肺のレントゲン検査で転移の有無を調べたり、視触診検査、超音波検査、マンモグラフィー検査、血液検査などで再発・転移していないかどうかを調べるのだ。その結果は約10日後に郵送で通知される。
この病気の切ない点は、「完治した」という事を10年以上経たないと言えない事だ。
(他の部位のがんなら5年再発・転移が無ければ完治というそうだが、乳癌は一般に進行が遅いので10年になっている。また、10年後でも再発・転移する人もいる) だから、身体に何かちょっとした異変を感じても不安になってびくびくするし、通知の封を切る時も毎回、凄く緊張するのだ。
前回の検査では異常がなかったが、「これから再発などし易いので、何かあったら直ぐに来て下さい」と注意された。
人間が健康に長生きする事って難しい事だ。
この2年8ヶ月間、実は私も人の命の有限性について思い知らされて来た。
それというのは、2年8ヶ月前の2004年10月に私は全く思いがけず乳癌であることが分かり、手術を受けたからだ。(発見したのは自分だったので偉いと自画自賛しているが…)
これまでブログの記事では、敢えてこの事には触れないようにして来た。先入観を持って記事を読んで欲しくなかったし、がんを患っていると言えば、それだけで普通の人として見て貰えないかも知れない等と気にしたからだ。
でも、今の日本でがん患者は増え続けているので、きっと自分が知らないだけで、回りにも普通の生活をしている何人もの患者達がいるのかも知れない。
そんな患者の一人として、今まで書いた私の記事に少なからず影響を与えている私の乳癌とその治療経過、そして、その結果としての私の死生観・生活観を今日は思い切って書いてみたい。少し長文になる事を了解して欲しい。
手術の3週間前に医者から「細胞検査の結果はがんだった」と宣告された時、もしかしたらと、半分覚悟はしていたつもりだったのに、診察室から出た途端に涙が溢れて困った。
それからの3日間位は、「来年、私は生きていられるのだろうか」という不安な思いに襲われ、夜も熟睡できず、どん底の精神状態に陥った。
(実は、痼りを発見した翌日、家の近くの有名な乳腺専門病院で検査を受けたのだが、その時、「ほぼこの痼りはがんに間違いないと思うが、あなたの場合は既に肺や骨に転移しているかも知れない。その場合、ここでは乳腺以外の治療はできないので、最初から他の総合病院に行って欲しい。」と言い渡されたのだ。
それで、今罹っている病院を選んで最初から検査をやり直し、針精検を受けた経緯があったので、悪い方へと考えが行ってしまい、ショックは大きかった。
《針精検とは、注射針の太いのを患部に射して組織の一部を吸出し、精密検査をすること》
また、初めの頃は病気に対する知識もほとんど無く、がんに罹ったら死ぬものだという認識位しか持ちあわせていなかった事もあった。
少し気持ちが落ち着いてからは、図書館から数十冊のがん関係の本を借りて読んだり、インターネットで病気の情報を調べたりした。
何よりも治療の経過を体験的に書いてあった幾つかのブログの記事が役に立ち、後の見通しを持てるようになった事は良かった。ブログの管理者には大変、感謝している。)
幸いな事に、当時の私は、38年間働いた職場を退職した後、新しい職場でパート労働に就いていたので、気心が通じていた同僚に励まされたり、パートでありながら、治療に先立ち、仕事面で上司の温かい配慮を受けたりして、徐々に病気に立ち向かう気持ちが生まれて行った。