4日目となる5月3日の朝は、最後の朝日を鑑賞するチャンスだったが、夜中強い雨が降り、朝日を望むことはできなかった。
朝食後、7時半にホテルに別れを告げ、「雲谷二索」のゴンドラ駅に向かった。
2泊分の荷物を入れたリュックは重いし、登りの石段がずっと続くので、前日の登山よりも私にはきつかった。まさに「行きはよいよい、帰りは恐い」だった。
ゴンドラが動き出すと10分間で下に着いた。
5月1日の朝は、ゴンドラの営業が8時からなのに、すでに朝の3時からここに人が並び始め、昼迄は3時間待ちだったと聞いたが、メーデーの休日が終わったので、見ると並んでいる人は誰もいなかった。また、待っていたクリーンバスに乗って大型バスの駐車場に戻った。
1時間バスに乗り、着いた所が世界遺産「イ県古民家村・宏村」だった。
ここは南宋時代に造ったという半月型の池があり、そのほとりに明、清代の古民家が150軒ほど点在し、今も数百人が暮らしているという。
かってはこれという産業がなく、男たちは何年も遠くへ出稼ぎに行ったり、商人として働いたりしたらしい。
家に姑と残った嫁さんが夜中に寝室から逃げ出さないようにするため、2階の窓は小さく作られ、鉄格子がはめられていた。当時の結婚で嫁に期待したのは、後継ぎの子供を産むことと老いた両親の介護だったのだ。
村の中心にある池では、老女が鍋を洗っていた。数人の女性が仲良く筍の皮むき処理をしていた。小路の店では焼いた鶏肉などを売っていた。
美術専門学校の学生が村を写生していた。ガイドによると、今では古民家の建築者がいなくなったので、学生に学ばせているのだそうだ。
古民家の一つに塩の商売で財をなした「汪志永」の立派な家が残されている。
中に入り、両親の居室、アヘンを吸う部屋、麻雀室などを見て回った。
アヘン室の床は、石灰と豚の血液、もち米の粉を混ぜて作ってあった。石灰は消毒作用があるから使われたのだろう。
麻雀室には、汪志永の妻が来た時に、2人の妾が隠れる暗室もあった。家事や接待は妻がやり、妾は麻雀室で遊んでいたのだと言う。
また応接室にある2か所の出入り口の上部には、「商」の字をデザインした素晴らしい木彫りの飾りがはめ込まれていた。当時、商人は身分が低かったが、身分の高い権力者でもその入り口から入ると商人の下になる様にと考えられた作りだという。
(両親の居室)
(応接室の出入り口上部)
宏村を出てから杭州市の「西湖」に向かい、霧に霞んだ西湖を1周、船で遊覧した。12月の時は、半周しただけだったので、西施になったつもりでゆったりと湖上から周囲の景色を楽しんだ。