「ショパン~花束の中に隠された大砲」(崔 善愛著・岩波ジュニア新書)を読んだ。
この本は当時のポーランドが置かれた状況(ドイツ、オーストリア、ロシア、プロイセンなどの列強国に侵略、分割されて支配されていた)の中で、ポーランドの独立を願いながら不本意に外国(フランス、イギリス)で生きなければならなかった作曲家ショパン(1810~1849年)の人生と、そこから生み出されたピアノ曲について書いてあった。
私は1985年のショパン国際ピアノ・コンクールで優勝したソ連のピアニスト「スタニスラフ・ブーニン」の演奏が好きで、ショパンのピアノ曲を主とした彼のCDも4枚あり、幾度となく聴いて来た。
今までは、ショパンの曲が何故心を捉えるのかを感情的にしか分かっていなかったが、この本によって、ショパンが心から湧き上がる祖国ポーランドへの切なる思いに基づき、「マズルカ」「ポロネーズ」などのポーランドの民族音楽を取り入れ、それまでの作曲の決まりに拘らない歌うような曲を作ったからだったと知った。
(既に多くの人が知っていることだが、スタニスラフ・ブーニンも優勝の数年後、母親と共にソ連から亡命したピアニストだ。その後日本女性と結婚し、日本に住みながら世界中で演奏会を開いて活躍し続けている)
ショパンが、フランス、パリで最後の演奏会を開いた直後の1848年にパリで「二月革命」が起きている。
その後、演奏旅行に出たイギリスで結核が悪化、11月16日に人生最後の演奏会を体調不良を圧してポーランド亡命者のために開いたのだ。
パリに戻ったショパンの病状は、翌年にはますます重篤になりながら、最後に「マズルカ ヘ短調 作品68」を作曲している。(この曲は、残念ながら手持ちのCDには収録されていない。是非聴いてみたい)
ショパンは、1849年10月13日、危篤状態の中で神父に遺言を残した。
出版されていない曲は焼却すること、葬儀にはモーツアルトの「レクイアム」を演奏して欲しい、そして自分の心臓はワルシャワに持って帰って欲しいという内容だったという。
そして10月17日、亡くなった。その後、彼のデスマスクと左手の型が取られた。
遺言どおり、彼の防腐処理をした心臓は、翌年初め、姉の手でワルシャワの「聖十字架教会」に納められた。
1917年にロシア革命によって帝政ロシアが崩壊した後の1918年、ポーランドは遂に123年振りの独立を果たしたが、1939年、ヒトラー政権のドイツが進攻し、その後ソ連にも進攻されて、またポーランドは2国に分割占領されて国の存在が消されてしまう。
東部の100万人以上の市民がソ連に移住させられ、強制労働で命を果たす事に。
また西部の市民の2割はドイツに殺害されたという。さらにユダヤ人の多くが迫害され、その9割(虐殺された数は定説で全部で600万人といわれる)が強制収容場に送られて命を落したという。
1940年には、ナチス占領下で「ポーランド音楽演奏禁止令」が出た。音楽を聴くことで民族の精神的支えを得て来た市民の悲しみは大きかった。その後も市民は、地下室などに集まり、密かにショパンなどの音楽を聴き続けたという。
ポーランド国民悲願の独立は、第二次世界大戦終結を待たねばならなかった。
読み終えてから久し振りにCDを続けて2枚聴いた。
「ピアノ協奏曲第1番ホ短調」は私が最も好きな曲の一つだが、ショパンはポーランドを離れる直前の演奏会で、自らこの曲を演奏したらしい。彼の切ない気持ちが、今までよりも強く心に伝わって来た。
(なお著者の崔氏は、1959年日本で生まれた在日韓国人のピアニスト。
彼は外国人登録の諮問押捺制度に反対したため、留学していたアメリカから日本への再入国が不許可となった。
裁判を起こし、14年間戦って「特別永住権」を取り戻した経歴の持ち主である。こういう人だから、ショパンについて書けたのだろうと思った)
この本は当時のポーランドが置かれた状況(ドイツ、オーストリア、ロシア、プロイセンなどの列強国に侵略、分割されて支配されていた)の中で、ポーランドの独立を願いながら不本意に外国(フランス、イギリス)で生きなければならなかった作曲家ショパン(1810~1849年)の人生と、そこから生み出されたピアノ曲について書いてあった。
私は1985年のショパン国際ピアノ・コンクールで優勝したソ連のピアニスト「スタニスラフ・ブーニン」の演奏が好きで、ショパンのピアノ曲を主とした彼のCDも4枚あり、幾度となく聴いて来た。
今までは、ショパンの曲が何故心を捉えるのかを感情的にしか分かっていなかったが、この本によって、ショパンが心から湧き上がる祖国ポーランドへの切なる思いに基づき、「マズルカ」「ポロネーズ」などのポーランドの民族音楽を取り入れ、それまでの作曲の決まりに拘らない歌うような曲を作ったからだったと知った。
(既に多くの人が知っていることだが、スタニスラフ・ブーニンも優勝の数年後、母親と共にソ連から亡命したピアニストだ。その後日本女性と結婚し、日本に住みながら世界中で演奏会を開いて活躍し続けている)
ショパンが、フランス、パリで最後の演奏会を開いた直後の1848年にパリで「二月革命」が起きている。
その後、演奏旅行に出たイギリスで結核が悪化、11月16日に人生最後の演奏会を体調不良を圧してポーランド亡命者のために開いたのだ。
パリに戻ったショパンの病状は、翌年にはますます重篤になりながら、最後に「マズルカ ヘ短調 作品68」を作曲している。(この曲は、残念ながら手持ちのCDには収録されていない。是非聴いてみたい)
ショパンは、1849年10月13日、危篤状態の中で神父に遺言を残した。
出版されていない曲は焼却すること、葬儀にはモーツアルトの「レクイアム」を演奏して欲しい、そして自分の心臓はワルシャワに持って帰って欲しいという内容だったという。
そして10月17日、亡くなった。その後、彼のデスマスクと左手の型が取られた。
遺言どおり、彼の防腐処理をした心臓は、翌年初め、姉の手でワルシャワの「聖十字架教会」に納められた。
1917年にロシア革命によって帝政ロシアが崩壊した後の1918年、ポーランドは遂に123年振りの独立を果たしたが、1939年、ヒトラー政権のドイツが進攻し、その後ソ連にも進攻されて、またポーランドは2国に分割占領されて国の存在が消されてしまう。
東部の100万人以上の市民がソ連に移住させられ、強制労働で命を果たす事に。
また西部の市民の2割はドイツに殺害されたという。さらにユダヤ人の多くが迫害され、その9割(虐殺された数は定説で全部で600万人といわれる)が強制収容場に送られて命を落したという。
1940年には、ナチス占領下で「ポーランド音楽演奏禁止令」が出た。音楽を聴くことで民族の精神的支えを得て来た市民の悲しみは大きかった。その後も市民は、地下室などに集まり、密かにショパンなどの音楽を聴き続けたという。
ポーランド国民悲願の独立は、第二次世界大戦終結を待たねばならなかった。
読み終えてから久し振りにCDを続けて2枚聴いた。
「ピアノ協奏曲第1番ホ短調」は私が最も好きな曲の一つだが、ショパンはポーランドを離れる直前の演奏会で、自らこの曲を演奏したらしい。彼の切ない気持ちが、今までよりも強く心に伝わって来た。
(なお著者の崔氏は、1959年日本で生まれた在日韓国人のピアニスト。
彼は外国人登録の諮問押捺制度に反対したため、留学していたアメリカから日本への再入国が不許可となった。
裁判を起こし、14年間戦って「特別永住権」を取り戻した経歴の持ち主である。こういう人だから、ショパンについて書けたのだろうと思った)