花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「ウズベキスタンの旅」(5)

2014年05月29日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪タシケント観光≫(2)

②「独立(ムスタキリク)広場」
私たちはバスから降りて地下鉄に乗り換え、4駅乗って「ムタキリク・マイダニ駅」で下車した。地下鉄の深さや建築の芸術性は、以前経験したモスクワのものとは比較にならないが、ここのホームも天井が高く、美的にも駅ごとに力を入れて造ってあった。
それにガイドからこの国の若者は皆、高齢者に席を譲ると聞いていたが、その通りだった。私は席を譲ってくれた女性に、いつも持ち歩いている半完成の折ズルを目の前で完成させて渡したら喜んでくれた。
それを見ていたグループの女性が、「今度は私も真似させてもらうね。」と言っていた。

駅を出ると、もうそこが市の中心の「独立広場」だった。広い公園にコウノトリを飾ったモニュメントが造ってあった。

また奥に進むと噴水の向こうに「母子像」のモニュメントがあった。ガイドの説明では、ソ連時代にはレーニン像が建てられていたが、今は国を産み出した大地を現す母と、生まれて間もない若い国を現す子どもの像に変わったという。
この日の気温は37℃あって、雲ひとつ無い青空から射す光が目に痛い位だった。

  

③「ナヴォイ・オペラ・バレー劇場」
「独立広場」から8分程歩き、「ナヴォイ・オペラ・バレー劇場」が建つ「ナヴォイ公園」に行った。
1947年に完成したこの劇場は収容人数1500人、レーニン廟の設計者シューセフが設計を手がけた劇場だが、日本人捕虜達が強制労働によって建設したものだ。1966年の大地震で街の建物の大半が壊滅した時にもこの劇場の被害は少なく、人々は「日本人の優秀さと勤勉さによって建てられた結果だ」と評価したという。

(5月30日付けの朝日新聞「世界発」に「名劇場の陰 抑留の歴史」が掲載された。それに寄れば、このレンガ造りの劇場建設には約400人の日本人抑留者が携わったらしい。現在東京に住む帰還した元抑留者の話では、日本人の働きぶりは評判になり、魚の干物、ウオッカなどの差し入れや結婚の申し出まであったという)



④「ウズベキスタン歴史博物館」
また歩いて直ぐの所にある「歴史博物館」に行った。館内は撮影禁止だった。
ここには石器時代から現代までの歴史が展示されていて、小学生の団体も教師に引率されて見学に来ていた。
2階はガイドが説明してくれたが、3階の帝政ロシアが征服してから現代までの歴史展示は、自由参観だった。ロシアが行った政府に反対する人々の粛清の写真(並んで絞首刑されていたり、大勢が土中に埋められた写真)には身震いした。

 

④「バラク・ハン・メドレセ」
「メドレセ」は、イスラム教の神学校である。
ここは16世紀にバラク・ハンが建て、中央アジアのイスラームの本庁だった所だが、2007年から学生用の部屋には土産物屋が入っている。
モザイクタイルが美しい部屋で、土産物屋の店員が陶器の絵付けをし、色々な土産物が売られていた。
屋外の草原で、子どもを遊ばせている女性を見かけた。

 

 

⑤「クカルダシュ・メドレセ」
16世紀にタシケントを支配していた大臣が、街の中心部に建てた神学校だ。モスクと神学校は6~7m高くなった場所に建てられていた。
ロシア帝国が支配する前は、罪人や不貞を犯したとされた女性がミナレットから投げ落とされたらしい。

 

 

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