花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

伯母を家族葬で送る(行年101歳)

2019年02月06日 | 高齢期の生活全般

伯母は、2月4日朝7時16分、入院先の病院で亡くなった
遠因は「脳梗塞」で、死因は「老衰」と診断書にあった。満年齢で99歳1ヶ月だった。

私が病院から連絡を貰って駆けつけた時、1分遅かったと看護婦に言われた。
しかし、その前日も見舞いに行き、伯母の大変な様子は十分に感じていた。また、それまでの伯母とのやり取りから伯母自身の覚悟を知っていたし、私も医療行為とは言え、なかなか入りにくくなった点滴の針を伯母に射したり、詰まりそうな痰の吸引などを見て、これ以上伯母に辛さを我慢させるのも限界だと思い始め、医師に「痛い思いをさせないで欲しい。」と頼んでもいた。
医者には「急だったけど、眠るように静かに亡くなった。」と聞かされた。
伯母に会って「やっと8か月もの辛かった闘病生活が終わったね。お疲れ様!」と声を掛けた。
伯母の身体はそれから2時間近く温かだった。

葬儀は、伯母と話し合っていた通り、式場を借りず、通夜や葬式を行わない自宅での「家族葬」にして、出棺後、最後に火葬場での「火葬式」だけを行う事にした
なので葬儀社に伯母を病院から我が家に搬送してもらい、伯母が暮らしていた居間の隣室に安置した。
その後、身内数軒に電話で連絡したが、私の妹以外はいずれも高齢だったり、病気療養中で行けないと言われた。

伯母を安置した後、私は一人であちこち飛び回り「家族葬」の準備をした。
先ず、沢山の献花を買って来て祭壇に飾った。花は伯母の希望通り白色以外に黄色やピンク、青色の花も混ぜた。
また、この数年撮り溜めた伯母の写真をパソコンからUSBに移して写真店に行き、プリントし、写真立てに入れて「遺影」とした。その他数枚を組み合わせて「思い出の写真パネル」を用意した。これには夜までかかった。

歌が好きで毎日口ずさんでいた伯母だったので、お経の代わりに「音楽葬」を考えていた。
結局、家にあった「鮫島由美子」の「日本の歌ベスト」のCDをバックグラウンドに静かに流し続けた
「カラタチの花」「カナリヤの歌」「浜辺の歌」「この道」など、ソプラノの歌曲が静かに流れ、雰囲気にピッタリの音楽だった。

また昨年、伯母が元気だった時に、二人でお釈迦様の元に行くための「戒名」を考えて決めてあった
伯母の婚家の宗派のお寺を見つけ、事前に住職に「火葬式」のお経を上げて欲しいとお願いしてあった。
快く引き受けてもらえたので、葬儀社から受け取った白木の「位牌」を持ってお寺に向った。

夕方、伯母が入院して以来、心配してくれた 近所数軒を回り、死去を知らせ、香典、お花代などを遠慮したいという故人の遺志を伝えた。そして、明日の出棺前に時間が許すならお焼香だけをしていただきたいとお願いした。
近所の方々が夜と翌朝に次々と我が家を訪れ、焼香をしてくれたが、夫婦で来て「般若心経」を唱えてくれた方もいて感激した。

亡くなった夜は、伯母から何回かに分けて話してもらって記録してあった「伯母の人生」を「聞き書き」としてまとめ、A47ページの冊子を作った
これは身内にのみ渡した。寝たのは24時だった。

昨日は、朝、伯母に化粧を施し、葬儀社が持って来た棺に納棺後、伯母が好んで使っていた綺麗な色のシルクのスカーフ3枚と花で顔の周りを飾った。
火葬場に着くと先にお寺の住職が来ていて、「位牌」に立派に「戒名」が書かれたのを渡された。裏を見ると「行年101歳」と書かれていた。
お経を上げてもらい、短時間だったが厳粛な「火葬式」を済ませることができ、お寺に心から感謝した
「火葬」には1時間50分かかった。その後、お骨を拾って骨壷に納め、自宅の祭壇に置いた。

それから妹夫婦とレストランに行き、「供養」と「精進落とし」の膳を囲んで、全ての葬儀を終えた。

伯母は大正時代に生まれて以来、ひたすら自分の境遇に従順に生きながら、力の限り働き、決して努力を惜しまず、最後まで周りの人を気遣い、平成最後の年までの1世紀を立派に生き抜いた。
私は、その伯母の人生最後の数年間の日々に、微力ながら寄り添えた事は幸せだった。
と共に、私も伯母の人生から学んだ多くの事を、残りの人生に活かしたいと思っている。

伯母さん、お疲れ様でした。そして有難う!   

                       

コメント (6)
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