昨日は母の命日が近く、秋分でもあるので、娘の車で一緒にI市の墓地に墓参に行って来た。
庭の「ダリア」や「アルストロメリア」「秋明菊」などで作った花束と菓子や飲料などを供えて、母と伯母、母の実家の物故者をお参りした。
私の母は48年前の9月2〇日に、当時私と一緒に暮らしていた地方の総合病院で亡くなった。
当時、北海道の郡部には、「3歳未満児を受け入れる保育所」がほとんど無かった。それで私は長男が生まれた後、母親を引き取り、最後まで母の面倒を見る代わりに孫の世話をしてもらうという予定だった。
ところが同居した1年後に風邪に似た症状が母に出、微熱が続いた。その内黄疸にもなって、医者からは「急性肝炎」だと告げられた。
母を総合病院に入院させて治療をしたが、とうとう4ヶ月後に54歳の若さで旅立ってしまった。母の最後は「肝硬変」だった。
思いがけなかった母の死に私のショックは大きかったが、親の法要で取れた1週間の休暇が済み次第、出勤するために子供の育児をどうしたら良いか、先ずはそれを考えなければならなかった。 色々試してみたがなかなか上手く行かない。最終的に知人の奥さんが個人的に昼間、見てくれることになり、何とか半年乗り切った。
長男は2歳になっていたが、その頃の私のフルタイムの仕事と育児を両立させる毎日は、今振り返っても本当に大変だった。
やがて翌春、職場の上司の努力で、私は「未満児の保育」もしている町に転勤できた。それからは「保育所」の保母さん達に支えられながら、私は働くことができ、そして長男は小学校の入学日を迎えた。
小学校に入ってからは、3年生まで、授業の終了後は夕方まで「学童保育所」で面倒を見てもらい、私は働き続けた。
長男が小学生になってから、もう一人、娘が生まれたが、産後6週間だった産休明けから1歳までは、その町が助成している「保育ママ」制度を使って、個人の家庭で保育をして貰った。一歳になってからは「保育所」に通わせてもらい、本当に助かった。娘も小学校入学後の午後は、3年間、「学童保育所」の世話になった。
母亡き後は、綱渡りをするような毎日の生活が続いたが、お陰さまで私は60歳の停年まで何とか勤める事ができ、子供達もそれぞれ大学を出て、独り立ちした。
振り返って見ると、働く女性を支えるには、先ずは「産休明けからの子供を預かる保育所」が必要だ。しかし、私が子供を育てた48年前から国の体制は余り前進していないように思われる。女性の働き手を増やすための政策を、国には早急に望みたいものだ。
子供を産み育てる事が、若い夫婦の喜びとなる日が来れば、「少子高齢化」が原因の諸問題を解決し、「年金問題」、そしてやがては「労働力の確保」にも明かりが見えて来るように思うのだが。
勿論、企業が長時間労働を当たり前とする意識と体制を欧米などの様に改めて、家庭生活も大事にする社会へと変る事、そして育児子育てを男女共同の役割にする事も差し迫った課題であろう。