本日19時~20時 30周年 第二回
【Today's MENU】
●テーマ…RECORDING
●コメントゲスト…山下久美子
1 JUJU
Q佐野さんがレコーディングを行う時最も拘ることは?
佐野
良いレコードを作るということはレコーディングするそのサウンド作りですね。ここにお金と時間をかけるということになると思います。特に80年代は日本のレコーディング環境が満足できないものだったので、僕は海外でレコーディングする機会が多かったですね。それはNYであったり、ロンドンであったり、そしてロックンロールの歴史の古い街でレコーディングする機会が多かった。まあ、自分から求めて行ったんですけどね。まあ、そこで出会うエンジニア、レコーディング・プロデューサー、ミュージシャン達。やっぱりロックンロールの歴史を深く刻んでいる連中ですから、彼等の仕事の仕方から色んなことを学びました。それが現在の自分に役立っていると思います。日本でのレコーディングの仕事と一番違うところは、やはり音楽に向かうその姿勢ですね。ロックンロール音楽をいかにリスペクトしているか。いかに愛しているか、そしてレコーディングに対する愛情だけではなく、知識ですね、そうしたものがやはり歴史を深く刻んでいる彼らの方が深かった、これは言うまでもないですよね。僕もそうした彼等の音楽に向かい合う姿勢や精神、技術ですね。そういったものを具体的に学びたかった。それでNY、ロンドンに行って来ました。
Qそんなレコーディングの中で感じる音楽の力とは何ですか?
佐野
80年代の海外レコーディングを例にとると、文化の違う人間が一同に集まり、ロックンロールというものを通じてやはり一つになれるということですね。文化や性別や世代を超えて音楽というのは物事を一つにまとめていく力があると、これは何度か経験しました。
2 アンジェリーナ
佐野
アンジェリーナは僕が1980年『バックストリート』というデビューアルバムに収録した曲であり、僕の最初のシングルカット曲ですね。僕が聴いてきた中で言うと、それまでの日本語の曲で言うと、3分間の中で文字量でするとまあ全体を10とすると文字の量が6ぐらいに聴こえた。僕はアンジェリーナという曲でもってその文字の量を倍に増やしたかったんですよね。というのは僕の上のジェネレーションが感じる情報処理能力よりも若い方が当然情報処理能力が高いわけで、えー3分間ウダウダ同じようなことを歌ってられてもツマンナイナって話があって、それだったならば、聴き手が追いついていけないほど情報量がいっぱい詰まった詩を書きたい。でーロックンロールのビートに乗せて、それを上手く歌いたい。その辺のことを考えて作ったのがアンジェリーナです。
Q今まで最も印象深いレコーディングスタジオはどこですか?
佐野
まあ印象的なレコーディングスタジオ、そうですね、一つ例に挙げるとするならロンドンのオリンピック・スタジオ、このスタジオは歴史的にUKロックバンドが名盤を作ってきたレコーディングスタジオとして良く知られていました。ですので、雰囲気がありますよね。えー自分がレコーディングしている時もポール・マッカートニーや・・・(聞き取れず)といったミュージシャン達が二階でレコーディングしていたり、一番印象的だったのはクィーンが二階でレコーディングしていたことですね。フレーでリー・マーキュリーがまだ生きていた頃ですね。朝早く僕はスタジオに行って、アシスタントエンジニアに頼んでクィーンのレコーディング現場を見たいって見せてくれて、まだクィーンのメンバーが来ていないうちにですね。二階に連れて行って見せてもらって、大体このレコーディングの全体的なレギュレーションを自分なりに見学したんですけれど、こんな風にしてあのギターサウンドは録音するんだなって、こんな風にしてドラムサウンドは録るんだなって、随分参考になりました。
Q1983年新しい刺激を求めてNYに渡りましたが、そんなNYに求めたものは何だったんですか?
佐野
1980年代中盤に僕は日本のキャリアを一旦横に置いて、NYにかなり長い間住むことになるんですね。そこで誰もやったことのないサウンドを作り出したい。というのが僕の希望としてあった。レコーディングの方法も日本に居る限り日本でのやり方でしかないですから、やはりNYに行って、インターナショナルな世界基準のスキルを身につけたい。こういうのがあったんですね。えー当時最も僕の心を捉えたのは、ストリートレベルで炸裂していたヒップポップカルチャーの炸裂ですよね。えー僕と同じ年恰好の若い連中達がみんなマンハッタンに入ってきていました。西ドイツから東アジアからフランスからカナダから、みんな集まっていた。そういう連中たちはみんな母国語でヒップポップ、ラップ音楽をやっているのを見て、面白いなと思い、僕はFAR EASTから来ましたので、日本語を使ってのラップ音楽。これを作ってみんなのことをビックリさせようと、そんな所からNYでのレコーディングはヒップポップ傾向の強いアルバムになりましたね。それが『VISITORS』です。
Qその当時佐野さんが感じたヒップポップの魅力とはナンだったんですか?
佐野
ヒップポップだか何だか、そんな名前なんてどうでも良かったんですよね。僕は鼻ッから言葉と音楽ということに興味を持っていたし、特に60年代ボブ・ディランの楽曲を聴くと、例えばSubterranean Homesick Bluesなどは今聴いても、その言葉が中心となったスキルフル・ビートのロックンロールそれをヒップポップラップの様式に変えてやろうとすれば出来なくはないと思うんですよね。僕が興味があるのはヒップポップとかロックンロールとかそうした様式ではなく、そこで何が歌われているのか、それと言葉とビートの関係はご機嫌なのかどうか。そこが僕の一番の関心事です。
3 NEW AGE
これは『VISITORS』に収録した曲ですよね。当時はまだインターネットというものがなかったんですが、80年代半ば頃のはずですから、ただ社会学者とかがものを言い始めていて、所謂産業が中心の世界から情報が中心の世界へと変わろうとしているなんてことを予見している社会学者なんかも出てきていたと思うんですよね。僕も当時は20代にあって、これからの世界をどうように捉えようかなって物凄く興味があって、地球というものがね神経細胞的な広がりを持って、それが後のインターネットなんて言われることになるんですけれども、そして国境を超えて時間を越えて人々が結びつき会う。そんな世界がもう直ぐ来てるんじゃないかなっていう予感がこうあり、で、それに伴う痛みとかね。それに伴う喜びとか。それらをロックンロールに出来ないかなって作ったのがこのNEW AGEです。
4 奇妙な日々 STRANGE DAY
Q佐野さんがレコーディングする中で大切にしていることって何ですか?
佐野
レコーディングスタジオの中では大切にしているのは何はともあれ偶然ですよね。物事をこう理詰めで進めていって、コンセプチュアルに進めていって得られる結果というのも判るんですけれども、それらの結果というのは予想される結果なんです。しかし音楽を創作する現場で一番大事にしなきゃいけないのは1+1が3にもなり4にもなり5にもなるという、この公式ですよね。そのためには、やはりレコーディングへの取り組みは柔軟でなければならないし、子どものような心、子どものような目を持って音楽に接しないとそうした素晴らしい偶然というのは出てこない。なのでよくバンドのメンバーとかと馬鹿話をしながら、そうした馬鹿話から瓢箪から駒で良いアイディアが生まれて来たり、ということが往々にしてあるんですね。言ってみれば遊びですよね。レコーディングスタジオの中で僕が大切にしているのはそうした遊びの精神です。
Qでは曲が出来てレコーディングに臨むその間のプロセスはどうなっているんですか。
佐野
詩・曲は自分のテープレコーダーに、昔はよくテープレコーダー、今であればデジタルレコーダー、そうしたところに記録としておいて、他のミュージシャンと緻密にコミュニケーションが必要なものはデモテープを作り、こんな感じになるんだよってことを示しながらやりますけれども、その必要が無い、直感的にこれはジャムセッションでよい曲が得られると思ったものに関しては全部頭ん中で組み立てて頭の中に組んであったものをリハーサルスタジオに行き、バンドにフレザントしてサンプルを聴きながら段々纏め上げていく。クラッシック音楽で言うと指揮者の役割ですね。
5 水上バスに乗って
90年代にリリースした『フルーツ』というアルバムに収録した曲「水上バスに乗って」
レコーディングには10年くらい年の違うPLAGUES(プレイグス)というバンドがありました。深沼元昭 後に僕のサードバンドのギターリストとしてセッションしてくれるんですけれども、その彼のバンドPLAGUESをバックに歌った曲ですね。それまで僕は十数年来エックスバンドであるハートランドをバックにとって来た訳ですけど、ハートランド以外のバンドで演奏してレコーディングするのがこれが初めてでした。
Qライブではレコーディングされたものとは違ったアレンジで演奏されるものがありますが、それは何故ですか?
佐野
よく80年代90年代とレコードにした曲をライブでは大幅にアレンジを変えて披露することも多かったですね。それは何故かというと演奏を楽しみたかったからです。でー長い長いツアー同じ曲を同じ型で何回も演奏すると飽きてしまいますから、そうすると演奏スリルというものが無くなってきて、そうするとライブに活気がなくなってくるんですよね。僕自身もバンドメンバーも常にその楽曲に新しい新鮮な気持ちで付き合いたかったので、どんどんツアーの中でアレンジを変えていくという結果になりました。
6 この街の何処かで
僕は2004年に自分のレーベルを設立します。デイジー・ミュージック・レーベルですね。そのデイジー・ミュージック・レーベルから第一弾アルバムが『THE SUN』、それに続く二倍目のアルバムが『COYOTE』ですね。これまでのホーボーキングバンドではなく、新しいバンドを持ってきて、まあ僕よりずっとキャリアの若いドラム、ベース、ギターを集めてのレコーディングとなりました。何を歌いたいかって明確な時でしたから、コヨーテというアルバムは自分のキャリアの中でも凄く上手くいった良いアルバムになりましたね。
7 ヤング・フォレバー
ゲスト山下久美子からのメッセージ
山下
佐野くん元気ですか?30周年おめでとうございます。私は何しろ80年同じデビューということで80年代は特に色んな場面で御一緒させて頂くことが沢山あったから今でも思い出すことが物凄くあって、なかなか短い時間では語りつくせなかったりするというそれくらい物凄く胸に溢れているという感じで、困ってしまうんですけれど、今回30周年を迎えたということで今もなお佐野君が物凄く元気でキラキラ輝いて活躍しているってことがすっごく嬉しいです。そしてこれかも勿論素敵に思い描いていることを色んな形にしていくんだろうなってことを思うと楽しみでしょうがないっていう。丁度20周年の時、佐野君とお会いして、これは僕にとって通過点だって語っていたのが すっごい印象に残ってますね。だから今もそういう大きな通過点に遭遇しているんだろうなって勝手に想像しています。余談ですが、その頃うちの娘が下の娘が丁度一歳になったばかりの娘を連れて佐野君のコンサート、渋谷公会堂もうCCレモンホールっていう名称になってるけど、渋谷公会堂、我々にとってもとても思い入れ深い場所にて佐野君のコンサートを見に行ったことを今も私達には宝のような思い出になって残っているんですけれど、娘が凄い興味を持ってコンサートを最初から最後までニコニコで見ながら見ていた姿がなんかとっても微笑ましいというのか、凄く一緒に過ごせた、同じ空間とか時間を共有できたことが、とっても私誇らしくて、ナンと言っても彼女にとっての初めてのコンサートが佐野元春よっていつか誰かに語ることが私は何か楽しくて仕様がありません。そういうことなんかも含めていろんな場面で、いつも私は佐野君から力を貰っているような気がしています。是非これからも益々輝いて益々真のアーティストとして色々な思いを貫いて欲しいなって思います。今度3月6日の大阪城ホールでのコンサートを楽しみにしています。10年ぶりでしょうか一緒に歌えるのは、本当に楽しみにしています。これからも是非頑張って下さい。山下久美子でした。
佐野
3月6日僕のファイナルの一つである大阪城ホール、山下久美子さんも出演してくれるということです。嬉しいですね。みなさんも楽しみにしていて下さい。
ではここで「月と専制君主」から、オリジナルは1984年VISITOROSです。
8 日曜日の朝の憂鬱
来週は「バンド」というテーマでお話を伺います。
佐野
今夜も聴いてくれて有難う。
9 シュガー・タイム
【Today's MENU】
●テーマ…RECORDING
●コメントゲスト…山下久美子
1 JUJU
Q佐野さんがレコーディングを行う時最も拘ることは?
佐野
良いレコードを作るということはレコーディングするそのサウンド作りですね。ここにお金と時間をかけるということになると思います。特に80年代は日本のレコーディング環境が満足できないものだったので、僕は海外でレコーディングする機会が多かったですね。それはNYであったり、ロンドンであったり、そしてロックンロールの歴史の古い街でレコーディングする機会が多かった。まあ、自分から求めて行ったんですけどね。まあ、そこで出会うエンジニア、レコーディング・プロデューサー、ミュージシャン達。やっぱりロックンロールの歴史を深く刻んでいる連中ですから、彼等の仕事の仕方から色んなことを学びました。それが現在の自分に役立っていると思います。日本でのレコーディングの仕事と一番違うところは、やはり音楽に向かうその姿勢ですね。ロックンロール音楽をいかにリスペクトしているか。いかに愛しているか、そしてレコーディングに対する愛情だけではなく、知識ですね、そうしたものがやはり歴史を深く刻んでいる彼らの方が深かった、これは言うまでもないですよね。僕もそうした彼等の音楽に向かい合う姿勢や精神、技術ですね。そういったものを具体的に学びたかった。それでNY、ロンドンに行って来ました。
Qそんなレコーディングの中で感じる音楽の力とは何ですか?
佐野
80年代の海外レコーディングを例にとると、文化の違う人間が一同に集まり、ロックンロールというものを通じてやはり一つになれるということですね。文化や性別や世代を超えて音楽というのは物事を一つにまとめていく力があると、これは何度か経験しました。
2 アンジェリーナ
佐野
アンジェリーナは僕が1980年『バックストリート』というデビューアルバムに収録した曲であり、僕の最初のシングルカット曲ですね。僕が聴いてきた中で言うと、それまでの日本語の曲で言うと、3分間の中で文字量でするとまあ全体を10とすると文字の量が6ぐらいに聴こえた。僕はアンジェリーナという曲でもってその文字の量を倍に増やしたかったんですよね。というのは僕の上のジェネレーションが感じる情報処理能力よりも若い方が当然情報処理能力が高いわけで、えー3分間ウダウダ同じようなことを歌ってられてもツマンナイナって話があって、それだったならば、聴き手が追いついていけないほど情報量がいっぱい詰まった詩を書きたい。でーロックンロールのビートに乗せて、それを上手く歌いたい。その辺のことを考えて作ったのがアンジェリーナです。
Q今まで最も印象深いレコーディングスタジオはどこですか?
佐野
まあ印象的なレコーディングスタジオ、そうですね、一つ例に挙げるとするならロンドンのオリンピック・スタジオ、このスタジオは歴史的にUKロックバンドが名盤を作ってきたレコーディングスタジオとして良く知られていました。ですので、雰囲気がありますよね。えー自分がレコーディングしている時もポール・マッカートニーや・・・(聞き取れず)といったミュージシャン達が二階でレコーディングしていたり、一番印象的だったのはクィーンが二階でレコーディングしていたことですね。フレーでリー・マーキュリーがまだ生きていた頃ですね。朝早く僕はスタジオに行って、アシスタントエンジニアに頼んでクィーンのレコーディング現場を見たいって見せてくれて、まだクィーンのメンバーが来ていないうちにですね。二階に連れて行って見せてもらって、大体このレコーディングの全体的なレギュレーションを自分なりに見学したんですけれど、こんな風にしてあのギターサウンドは録音するんだなって、こんな風にしてドラムサウンドは録るんだなって、随分参考になりました。
Q1983年新しい刺激を求めてNYに渡りましたが、そんなNYに求めたものは何だったんですか?
佐野
1980年代中盤に僕は日本のキャリアを一旦横に置いて、NYにかなり長い間住むことになるんですね。そこで誰もやったことのないサウンドを作り出したい。というのが僕の希望としてあった。レコーディングの方法も日本に居る限り日本でのやり方でしかないですから、やはりNYに行って、インターナショナルな世界基準のスキルを身につけたい。こういうのがあったんですね。えー当時最も僕の心を捉えたのは、ストリートレベルで炸裂していたヒップポップカルチャーの炸裂ですよね。えー僕と同じ年恰好の若い連中達がみんなマンハッタンに入ってきていました。西ドイツから東アジアからフランスからカナダから、みんな集まっていた。そういう連中たちはみんな母国語でヒップポップ、ラップ音楽をやっているのを見て、面白いなと思い、僕はFAR EASTから来ましたので、日本語を使ってのラップ音楽。これを作ってみんなのことをビックリさせようと、そんな所からNYでのレコーディングはヒップポップ傾向の強いアルバムになりましたね。それが『VISITORS』です。
Qその当時佐野さんが感じたヒップポップの魅力とはナンだったんですか?
佐野
ヒップポップだか何だか、そんな名前なんてどうでも良かったんですよね。僕は鼻ッから言葉と音楽ということに興味を持っていたし、特に60年代ボブ・ディランの楽曲を聴くと、例えばSubterranean Homesick Bluesなどは今聴いても、その言葉が中心となったスキルフル・ビートのロックンロールそれをヒップポップラップの様式に変えてやろうとすれば出来なくはないと思うんですよね。僕が興味があるのはヒップポップとかロックンロールとかそうした様式ではなく、そこで何が歌われているのか、それと言葉とビートの関係はご機嫌なのかどうか。そこが僕の一番の関心事です。
3 NEW AGE
これは『VISITORS』に収録した曲ですよね。当時はまだインターネットというものがなかったんですが、80年代半ば頃のはずですから、ただ社会学者とかがものを言い始めていて、所謂産業が中心の世界から情報が中心の世界へと変わろうとしているなんてことを予見している社会学者なんかも出てきていたと思うんですよね。僕も当時は20代にあって、これからの世界をどうように捉えようかなって物凄く興味があって、地球というものがね神経細胞的な広がりを持って、それが後のインターネットなんて言われることになるんですけれども、そして国境を超えて時間を越えて人々が結びつき会う。そんな世界がもう直ぐ来てるんじゃないかなっていう予感がこうあり、で、それに伴う痛みとかね。それに伴う喜びとか。それらをロックンロールに出来ないかなって作ったのがこのNEW AGEです。
4 奇妙な日々 STRANGE DAY
Q佐野さんがレコーディングする中で大切にしていることって何ですか?
佐野
レコーディングスタジオの中では大切にしているのは何はともあれ偶然ですよね。物事をこう理詰めで進めていって、コンセプチュアルに進めていって得られる結果というのも判るんですけれども、それらの結果というのは予想される結果なんです。しかし音楽を創作する現場で一番大事にしなきゃいけないのは1+1が3にもなり4にもなり5にもなるという、この公式ですよね。そのためには、やはりレコーディングへの取り組みは柔軟でなければならないし、子どものような心、子どものような目を持って音楽に接しないとそうした素晴らしい偶然というのは出てこない。なのでよくバンドのメンバーとかと馬鹿話をしながら、そうした馬鹿話から瓢箪から駒で良いアイディアが生まれて来たり、ということが往々にしてあるんですね。言ってみれば遊びですよね。レコーディングスタジオの中で僕が大切にしているのはそうした遊びの精神です。
Qでは曲が出来てレコーディングに臨むその間のプロセスはどうなっているんですか。
佐野
詩・曲は自分のテープレコーダーに、昔はよくテープレコーダー、今であればデジタルレコーダー、そうしたところに記録としておいて、他のミュージシャンと緻密にコミュニケーションが必要なものはデモテープを作り、こんな感じになるんだよってことを示しながらやりますけれども、その必要が無い、直感的にこれはジャムセッションでよい曲が得られると思ったものに関しては全部頭ん中で組み立てて頭の中に組んであったものをリハーサルスタジオに行き、バンドにフレザントしてサンプルを聴きながら段々纏め上げていく。クラッシック音楽で言うと指揮者の役割ですね。
5 水上バスに乗って
90年代にリリースした『フルーツ』というアルバムに収録した曲「水上バスに乗って」
レコーディングには10年くらい年の違うPLAGUES(プレイグス)というバンドがありました。深沼元昭 後に僕のサードバンドのギターリストとしてセッションしてくれるんですけれども、その彼のバンドPLAGUESをバックに歌った曲ですね。それまで僕は十数年来エックスバンドであるハートランドをバックにとって来た訳ですけど、ハートランド以外のバンドで演奏してレコーディングするのがこれが初めてでした。
Qライブではレコーディングされたものとは違ったアレンジで演奏されるものがありますが、それは何故ですか?
佐野
よく80年代90年代とレコードにした曲をライブでは大幅にアレンジを変えて披露することも多かったですね。それは何故かというと演奏を楽しみたかったからです。でー長い長いツアー同じ曲を同じ型で何回も演奏すると飽きてしまいますから、そうすると演奏スリルというものが無くなってきて、そうするとライブに活気がなくなってくるんですよね。僕自身もバンドメンバーも常にその楽曲に新しい新鮮な気持ちで付き合いたかったので、どんどんツアーの中でアレンジを変えていくという結果になりました。
6 この街の何処かで
僕は2004年に自分のレーベルを設立します。デイジー・ミュージック・レーベルですね。そのデイジー・ミュージック・レーベルから第一弾アルバムが『THE SUN』、それに続く二倍目のアルバムが『COYOTE』ですね。これまでのホーボーキングバンドではなく、新しいバンドを持ってきて、まあ僕よりずっとキャリアの若いドラム、ベース、ギターを集めてのレコーディングとなりました。何を歌いたいかって明確な時でしたから、コヨーテというアルバムは自分のキャリアの中でも凄く上手くいった良いアルバムになりましたね。
7 ヤング・フォレバー
ゲスト山下久美子からのメッセージ
山下
佐野くん元気ですか?30周年おめでとうございます。私は何しろ80年同じデビューということで80年代は特に色んな場面で御一緒させて頂くことが沢山あったから今でも思い出すことが物凄くあって、なかなか短い時間では語りつくせなかったりするというそれくらい物凄く胸に溢れているという感じで、困ってしまうんですけれど、今回30周年を迎えたということで今もなお佐野君が物凄く元気でキラキラ輝いて活躍しているってことがすっごく嬉しいです。そしてこれかも勿論素敵に思い描いていることを色んな形にしていくんだろうなってことを思うと楽しみでしょうがないっていう。丁度20周年の時、佐野君とお会いして、これは僕にとって通過点だって語っていたのが すっごい印象に残ってますね。だから今もそういう大きな通過点に遭遇しているんだろうなって勝手に想像しています。余談ですが、その頃うちの娘が下の娘が丁度一歳になったばかりの娘を連れて佐野君のコンサート、渋谷公会堂もうCCレモンホールっていう名称になってるけど、渋谷公会堂、我々にとってもとても思い入れ深い場所にて佐野君のコンサートを見に行ったことを今も私達には宝のような思い出になって残っているんですけれど、娘が凄い興味を持ってコンサートを最初から最後までニコニコで見ながら見ていた姿がなんかとっても微笑ましいというのか、凄く一緒に過ごせた、同じ空間とか時間を共有できたことが、とっても私誇らしくて、ナンと言っても彼女にとっての初めてのコンサートが佐野元春よっていつか誰かに語ることが私は何か楽しくて仕様がありません。そういうことなんかも含めていろんな場面で、いつも私は佐野君から力を貰っているような気がしています。是非これからも益々輝いて益々真のアーティストとして色々な思いを貫いて欲しいなって思います。今度3月6日の大阪城ホールでのコンサートを楽しみにしています。10年ぶりでしょうか一緒に歌えるのは、本当に楽しみにしています。これからも是非頑張って下さい。山下久美子でした。
佐野
3月6日僕のファイナルの一つである大阪城ホール、山下久美子さんも出演してくれるということです。嬉しいですね。みなさんも楽しみにしていて下さい。
ではここで「月と専制君主」から、オリジナルは1984年VISITOROSです。
8 日曜日の朝の憂鬱
来週は「バンド」というテーマでお話を伺います。
佐野
今夜も聴いてくれて有難う。
9 シュガー・タイム