小林先生との間には、三つの奇跡的な出来事があった。
・インターハイの一関予選で先生の率いるチームに奇跡的な大逆転で勝利した。
・20年後、その時の相手のキャプテンだった三塚さんと仙台で偶然同じチームでプレーした。
・バレーボールとは全く無縁な場で先生との交流が始まった。
いずれも私の人生をより豊かにしてくれる出来事だった。
その小林先生が彼岸に旅立った。
恩義有る方の葬儀には弔辞を奉読することを自分に課しているので、今回もそれに倣った。
そして、弔辞には上記の三つの奇跡を織り込んだ。
しかし、驚くほど憔悴しきっていた奥様の前で、冷静に奉読するのは難しく、通夜の席での
シーンは割愛せざるを得なかった。
それは奥様への配慮ではなく、「感情を抑え、冷静に読み通す自信が無い」ためだった。
「鬼の熊谷」も弔辞を奉読する際は「泣き虫熊谷」となる傾向が最近顕著になっている。
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「弔 辞」
小林先生の教え子でもない私が、先生とのお付き合いが始まったのは、六年前の十月に先生が奥様と
一緒に我が家を訪れたのが始まりでした。
私が、少し早めにサラリーマン人生に終止符を打ち、農業に転身して十年目を迎えた秋の事でした。
我が家の縁側でお茶を飲みながらくつろぎ、いかにも幸せそうな人生を送っている先生御夫妻を写真に撮り、毎日発信しているブログ「霜後桃源記」に高校時代の思い出と共に掲載したところ、それを見た先生は直ぐにコメントを入れてくれたのでした。
その時のブログの写真を、今回、奥様のご配慮により、遺影として飾って頂いたことは私にとっては極めて光栄なことと感激しております。
御二人の写真と先生のコメントは、スマホで「霜後桃源記、小林先生」で検索すると直ぐに出て来ますので、本日列席されている皆様にも確認して頂けたらと思います。
その後は、米や野菜を届けたり、また、先生からは蕎麦職人顔負けの手打ちそばを何度も頂戴するなどのお付き合いをさせて頂きながら、先生の退職後の活躍振りを伺う機会を得ました。
畑を耕すために管理機を購入し、家の直ぐ側の畑で野菜作りに挑戦すると共に、盛岡まで通って蕎麦打ちを勉強し、地域の区長を長年務めながら、蕎麦打ち教室を主宰し、趣味のゴルフではシングルに近い実力を有し、コンペで優勝して沖縄旅行を獲得されたこともあったとのことでした。
また、私が産直で小麦粉を販売する際の一助にと、パソコンで「手打ちうどんのレシピ」を写真入りで作成し、メールで送って頂いたこともありました。
一方、私からは、先生の一番弟子である三塚さんとの不思議な出会いを紹介したことがありました。
先生が修紅の監督に就任し、強豪チームに急成長しつつあった昭和四二年に、インターハイの一関予選で私のチームに「屈辱的な大逆転負け」を喫した時のキャプテンだった三塚さんは、その口惜しさから、卒業後もコーチとして残り先生の右腕として数年間に亘り後輩達を指導したのでした。
卒業後ニ十年を経た後の仙台の金剛沢で、高校時代の敵味方同士が同じチームでプレーするという偶然の出会いが有り、各種大会の終了後に三塚さんの自宅に招かれ、先生の教え子でもある千賀子夫人の手料理で酒を酌み交わす間柄になったことをお話したところ、先生も驚かれていました。
話しは半世紀前に遡りますが、バレーボールの全日本男子のセッターだった猫田選手は、東京、メキシコ、ミュンヘンと三回のオリンピック出場し、ミュンヘンでは金メダルを獲得していますが、その猫田選手とセッターのポジションを争い、全日本の代表候補選手として海外遠征も経験していた新潟出身の先生が、縁もゆかりもない岩手を訪れたのは岩手国体に向けた強化選手要員としてでした。
そして、国体終了後もそのまま修紅の教員として岩手に残り、同校を県内無敵の強豪チームに育てると共に岩手のバレーボール界の発展に大きく貢献されたことは夙に有名な話しであります。
また、二人の息子さんも高校の教員となり、赴任先の高校のチームを強豪チームに導くなどして、お父様同様に立派な実績を挙げておりますことも、既に皆さまご案内の通りです。
私も、バレーボールを「人生の友」として愛し続け、転勤族だったサラリーマン時代は転居した先々でバレーボールに親しんで参りました。
しかし、中央競馬で活躍するサラブレットのような先生と比べれば、 私は岩手の片田舎の農耕馬みたいな存在でしかなく、とても先生と個人的にお付き合い出来るような立場にはありませんでした。
そんなスーパースターの先生と、農作物を通じて親しくお付き合いさせて頂いたのは大変幸運なことでした。
数年前から癌の治療のため通院していることで蕎麦打ち教室を止めたことは伺っていましたが、いつも明るくにこやかな奥様に支えられ、元気そうにお見受けしていました。
昨年の十二月十二日にお会いした際も、いつもと変わらない様子でしたので、病気と闘いながらも何とか凌がれているものと受け止めていました。
そのため、突然の訃報に驚き、悲しく寂しい思いを禁じ得ません。
また、奥様やご家族の皆様の気持ちを思うと断腸の思いが致します。
昨日の通夜の席で奥様とお目にかかった際も、お互いに涙、涙で言葉が出ませんでした。
しかし、私は、魂は永遠に生き続けるものと信じています。
先生には、天国に行かれましても「神の見えざる手」を駆使して、愛する奥様は勿論のこと息子さんやお孫さん達を守り続けて下さいますようお願いしまして、お別れの言葉とさせて頂きます。
小林先生、どうぞやすらかにお眠り下さい。
令和三年三月十二日 熊谷良輝