穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

十一:ドストエフスキーにおけるテーマ

2011-07-09 09:39:34 | ドストエフスキー書評

ドストを思想家として評価するのは割と一般的らしい。平凡社だったかな、思想家叢書みたいなシリーズでドストが入っている。もっともこの双書、妙な人物がほかにも思想家、哲学者として入っているから何でも入れちゃうんだろうが。

思想家、哲学者としてのドストは評価できない。それは、長編を書くときにはテーマが必要だから思想らしきものがある。粘土などで大彫刻を制作するときに最初に骨組みと張りぼてを作る。素材は廃材でも、ぼろきれでも、古新聞でもいいわけである。ドストの思想と言うのはそんなものだろう。

私はドストは何回も読むが、思想を読むわけではない。シェークスピアを読むときに、あるいは観るときに思想なんて貪るように吸収するかね。「生くべきか、死すべきか」なんて思想でも何でもない。それだけ。だけどシャークスピアは偉大だ。

ニーチェがドストを読んでいたそうだ。原典が不明だが、どうも鋭敏、詳細、異常な心理描写に引かれるものがあったようで、思想的にどうのこうのというのではなさそうだ。

もっとも私の定義ではニーチェも哲学者ではない。思弁的心理学者とでもいうべきだろう。じゃジムクンド・フロイトは何だって、そうねえ、通俗的思弁心理学者とでも言うのかな。

前回、イポリートの長々とした告白のことに触れたので、前から一言補足しておきたかった「思想家としてのドスト」について述べた。極言すればドストはテーマ作家として偉大なのではない。これは膨大な「作家の日記」を通読すれば分かることだ。思想家の側面があることは間違いないが、偉大ではない。