陶淵明流に言えば「若きより俗に適うの調べなく」(少無適俗韻)という性格の人物がドストエフスキーの多くの小説の主人公である。その形態は頭の使いすぎ、本の読み過ぎだったり(女あるじ、罪と罰)、引きこもり(女あるじ、地下室の手記、罪と罰、二重人格)である。『白痴』の場合は精神疾患ということになっている。
そういう人物が「世間」という百燭電灯のもとでストレスにさらされ、多くの場合に恋愛というイベントで精神に変調をきたすというパターンがほとんどといっていい。その場合女は幻と言うか幻想というか、現実というか曖昧模糊としている。しかし、白痴の場合は他の作品に比べて非常に現実感を伴っている。
ようやく最後まで読了した。最後は見事にまとめているが、これは相当注意して読まないと「何が何やら分からない」小説である。ラストのまとめを別にすれば、この欠点は次の要因によるものであろう。
タイトルの白痴は非常に間違った先入観を与える。物語はムイシュキンが精神疾患と精神疾患再発の間の正常な状態の時のことである。ただ、「俗に適う調べ」が極端にないことが特徴である。白痴ではない。これが非常に読んでいてちぐはぐな感じを与える。
タイトルは変更すべきだったろうが、連載小説と言う性格からあとで変更できなかったのだろう。この連載小説であったこと、そしてドストの場合でも極めて精神的に不安定な時期にしかも色々と不如意な外国で執筆を継続したということが様々な読みにくさの原因であろう。
ナスターシャが主役であり、アグラーヤが準主役であり、ムイシュキンとロゴージンは形而上学的操作子であるという布石で再構成すれば非常に迫力のある、息もつかせぬ作品になったように思われる。