穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ロシアの貴族って何なのさ

2013-07-08 21:10:31 | 書評
ドストエフスキーやトルストイが描く19世紀ロシア社会の小説。

やたらと「貴族」が出てくる。食詰め者も貴族だし、農奴を数千人持っている貴族もいる。トルストイはともかくドストエフスキーも一応貴族身分らしい。

読んでいると江戸時代の士族、郷士あたりまでに相当するような感じがする。しかし、社会制度が全く違うだろうから上下関係や身分は同列には論じられまいが。

日本では封建制度で幕府があり、藩主の下に侍がいたわけだ。ロシアに封建制度があったのかな。日本みたいにきっちりした、どうもなさそうだ。

ことほど、左様に想像もつかないのに翻訳書には注も解説もつかない。本屋にも解説本はない。ロシア歴史の専門家はなんらかの資料を持っているかも知れないが。

ロシア皇帝とロシア貴族の関係はどうなのか。絶対君主でじかの関係なのか。行政制度も全然分からない。

それでもドストエフスキーの小説はそういう知識がなくてもあまり抵抗無く読めるが、トルストイは、そう言う知識がないとチンプンカンプンである。文庫本の出版社、訳者は注か解説ぐらいはつけろよ。もっとも彼ら自身まったく知識が無いのかも知れない。その可能性が高い。

トルストイのアンナ・カレーニナの後半である地方の貴族団長の選挙の話がある。ながながと続く。これが分からない。注をつけられなければ抄訳にしてしまえよ、新潮社さん。

思い出したが、ビクトル・ユゴーのレミゼラブルにも歴史的な政治情勢を長々と述べるところがある。話としてはつまらない(日本人にはまず興味がない)が、しかし読めば分かるように書いてある。それに比べるとトルストイは全然分からない。

作者に芸がないのか、訳者が怠慢なのか。







手持ちキャラで間に合わせる「カラマーゾフの兄弟」

2013-07-08 07:20:11 | 書評
文楽師の操れる人形は限られている、と言ったのは誰だったか。

つまり、作家は手持ちのキャラを使い回しているということだ。ましてドストエフスキーのようにショッキングな物語を作るには、そうそう手軽に毎回全く新しいキャラを考案出来るものではない。

「からまん棒の兄弟」を読み返している。亀山郁夫役だ。誤訳が多いという評判だが、手持ちがほかにないのでね。

親父のフョードルはステパンチコヴォ村のフォーマ・フォミッチの変形だな。肉襦袢をぞろりと着たフォーマというところだ。

長男のドーミトリーは白痴のナスターシャというところか。次男の薄気味の悪いイワンは罪と罰のラスコリニコフ、悪霊のスタブロ銀次といったところだ。

末っ子のアリョーシャはミニ・ムイシュキンだな。カテリーナもムイシュキン系列かも知れない。まだ最初のところを読んでいるのでこれは仮定だ。こういう仮定をその都度立てながら、あたるかな、と思って読むのが私のスタイルなのでね。

こうしてみると、からんまん棒の登場人物は暮れのNHK紅白歌合戦だな。スターのオンパレードだ。

おっと、忘れていた、GPS報告、亀山訳第一巻300ページあたり。

&: 忘れていた。ムイシュキンの元型もステパンチコヴォ村にある。ロスターネフ退役大佐である。読者からみると歯がゆいほど、どんな相手にもその人の善意しか見ない人物である。

ステパンチコヴォは丸谷才一が高く評価しているようだが、作品としてはそれほどのできではない。ただ、キャラ、登場人物の出し入れなど、ドストが後年の超長編の手法の模索をした痕跡が認められる。その意味では一読するのも一興かと。

ステンパンは新刊や文庫では手に入らない。大分前に出版された全集にあるようだ。古本屋か図書館を探せばあるだろう。英訳ではペンギンの叢書がある。これは比較的容易に手に入る。