穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドスト・キャラとイデーの並立

2013-07-24 08:04:38 | 書評
イデーの並立はポリフォニーに通じるといってもよかろう。むしろ、こういう順序で理解するとポリフォニーは分かりやすいかもしれない。

ドストの著しい特色は男性主要キャラの場合、イデーの単一性である。唯一の例外は、それもくっきりと描写はされていないが、「カラマーゾフ」のドミートリーのみである。

もっとも、ドストの実質的処女作(つまり貧しき人たちに先立って執筆された。発表では第二作目)の『二重人格』(あるいは「分身」)の『生き写し(ダブル)』をイデーの並立と取るかどうかであるが。

単一性とは同一時期(時間軸)で単一のイデーという意味である。時間の経過とともに、あるいは人生の試練をくぐり抜けて当然に性格、人格が変化していく場合はイデーの並立とはいわない。念のため。

之に反して、女性の主要キャラクターは同一時期に同一人物のなかでイデーが並立している。これがドストのドラマツルギーの基礎になっている。カラマーゾフでいえば、カテリーナであり、グルーシェニカである。

白痴のナスターシャしかり。白痴のアグラーヤしかり。

それに反して男性の場合はイデーの並立が無いばかりではなく、主要人物の中には肉体を持たない、つまり幽霊のようなイデーがある。極めて抽象的なイデーを表現する人物である。すなわち、悪霊のスタブローギンであり、カラマーゾフのイワンである。

カラマーゾフではゾシマ長老ですら肉体的に描かれているが、イワンに至っては脚もない(幽霊である)。

罪と罰のラスコリニコフはまだ肉体を完全に失ってはいない幽霊の前駆体である。悪霊のスタブロ銀次は完全に肉体をうしなっている。