19世紀中葉のロシアの田舎町での、里帰りした大学を出たばかりの青年、田舎の僧院の長老など、当時のロシアの典型人物を登場させ、それぞれのイデーの万華鏡を描いてみせたドストエフスキーは、青二才のイワンの戯作を、大思想のようにしゃぶり尽くす日本の文芸評論家を見て失笑しているのかもしれません。
もっとも、小説として、リアリストとしてのドストエフスキーは説教節の不完全なることを自覚していたと思われる。
大審問官では、これは24歳の青二才の脳髄に浮かんだ塵、芥、泡であることを示しているし、ゾシマ長老の説教のメモについては、断片的で不完全であり、文献的に検証不可能な部分が多いことを註釈している。
それはそうだ。あまりにも完全な説教節が小説の中に現れてはもっともらしくないし、妙だと思ったのだろう。
大審問官では、これは24歳の青二才の脳髄に浮かんだ塵、芥、泡であることを示しているし、ゾシマ長老の説教のメモについては、断片的で不完全であり、文献的に検証不可能な部分が多いことを註釈している。
それはそうだ。あまりにも完全な説教節が小説の中に現れてはもっともらしくないし、妙だと思ったのだろう。
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の Novel 部分と小説部分の腑分けである。小説部分とは小さな説、つまり説教節のことである。
さて、ドストにもこの説教節が多い。そして、なべて拙劣である。じゃによって腑分けが書評、文芸評論上必要となる。
さて、この間から読み返している。いま第二巻の終わりであるが、有名な大審問官と最後のアレクセイ(注)のまとめたゾシマ長老の臨終の説教である。
大審問官が拙劣であることは既に述べた。ゾシマ長老の説教も同断である。ただし、自叙伝的部分はなかなかよろしい。最後の「3 ゾシマ長老の談話と説教より」亀山訳第二巻434ページ以降。
注:アレクセイの方がここではいいのだろうな。アリョージャと愛称で呼ぶのより。よく分からんが。
他の訳者のと比べる必要も厳密にいえばあるだろう。ただ、亀山訳しか手元に無いので。訳文の影響も多分にありうるが。
大審問官もイワンの説教の後でのスメルジャコフとのこんにゃく問答はなかなかいい。
ドストは宗教についての論理的、あるいは哲学的な記述がおそろしく下手である。混乱、曖昧である。作家の日記などの評論部分にもそのことが云える。
ウィットゲンシュタインが云うように「語り得ぬことには沈黙するしかない」
あるいは、イエス・キリストのように「イエス、すべてこれらのことを、譬(たとえ)にて群衆に語りたまう。譬ならでは何事も語り給わず」マタイ伝福音書13-34
あるいは禅の不立文字もこの考えに相当する。
新約聖書の文句なしにすばらしいところは、絶妙なたとえのオンパレードにある。
さて、ドストにもこの説教節が多い。そして、なべて拙劣である。じゃによって腑分けが書評、文芸評論上必要となる。
さて、この間から読み返している。いま第二巻の終わりであるが、有名な大審問官と最後のアレクセイ(注)のまとめたゾシマ長老の臨終の説教である。
大審問官が拙劣であることは既に述べた。ゾシマ長老の説教も同断である。ただし、自叙伝的部分はなかなかよろしい。最後の「3 ゾシマ長老の談話と説教より」亀山訳第二巻434ページ以降。
注:アレクセイの方がここではいいのだろうな。アリョージャと愛称で呼ぶのより。よく分からんが。
他の訳者のと比べる必要も厳密にいえばあるだろう。ただ、亀山訳しか手元に無いので。訳文の影響も多分にありうるが。
大審問官もイワンの説教の後でのスメルジャコフとのこんにゃく問答はなかなかいい。
ドストは宗教についての論理的、あるいは哲学的な記述がおそろしく下手である。混乱、曖昧である。作家の日記などの評論部分にもそのことが云える。
ウィットゲンシュタインが云うように「語り得ぬことには沈黙するしかない」
あるいは、イエス・キリストのように「イエス、すべてこれらのことを、譬(たとえ)にて群衆に語りたまう。譬ならでは何事も語り給わず」マタイ伝福音書13-34
あるいは禅の不立文字もこの考えに相当する。
新約聖書の文句なしにすばらしいところは、絶妙なたとえのオンパレードにある。