穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

イワンの馬鹿

2013-07-18 11:30:47 | 書評
ミハイル・バプチンが百年前にうまいことを言っている。

ドストエフスキーの研究者、批評家は主人公達と一緒になって哲学に耽るとね。21世紀の書店を覗いてみても実態は同じなのに驚く訳だ。

カラマーゾフの兄弟の第五編プロとコントラにイワン君が大演説をぶつところがある。彼が作った「大審問官」をアレクセイに披露する。これが哲学ぶった日本のドスト研究者には神聖にして大好物なんだな。

バフチンによればドストの登場人物は様々なイデーである。イワン君は23才の「青二才」の動揺する脳髄に発生した芥でありあぶくである。それがイワンのイデーである。

ドストのリアリズムの筆致に狂いはない。かれは23歳の青二才にふさわしい演説をしている。そのことをイワンの口から最後に云わして読者に駄目をおしている。

引用始まり『ここに来て突然愚にもつかぬことをしゃべりまくったからな』
じつのところ、それは青年らしい未熟さと、青年らしい虚栄心からくる青年らしい憤りだったかもしれないし、自分の考えをうまく話せなかったという腹立ちだったのかもしれない。引用終わり

青年らしい、と三回も繰り返しているね。

ドストがこれだけ誤解が無いように明瞭に念をおしているのに、評論家諸君は神聖にして深遠な哲学を扱うように「大審問官」を弄くり回すのである。





退屈なところの無い歌舞伎もオペラもないが

2013-07-18 11:09:00 | 書評
忠臣蔵を通しで見るのは無粋ものだろう。一幕さわりだけ見て帰る人もいる。退屈なところは食堂にメシを食いにいったり、バーで一杯やるとか、廊下をぶらつくとかするものだ。

だから新参者の小説に退屈なところがあってもいいか。作者がここから百ページは読まなくてもいいよとか親切に書いてくれるといいんだがな。

トルストイのアンナ・カレーニナの最後の百ページなんて無用である。リョービンと云う人物の描写なんだが、リョービンはトルストイ自身だというから、どうしても書きたかったのだろう。途中でも随分ある。大河小説と言ってしまえばそれまでだが。




小説に何故説教が多いのか

2013-07-18 07:18:43 | 書評
小説とは坪内逍遥がnovelの訳としたという(広辞苑)。なぜそう訳したか、書いていない。広辞苑さん、いささか片手落ちだ。

明治の人だからシナの古典に関する教養知識はある程度あっただらろうから、ひょっとすると、漢書芸文志にある言葉を援用したのかも知れない。

すなわち云う「小説家者流・・ 道聴塗説者之所造也」。

小説に、特に退屈な長編小説に、作者の、あるいは登場人物の口を借りて珍説、愚説、妄説、月並み説を延々と述べるを常套手段とする者あるも、けだしむべなるかな。

私は坪内逍遥の文章を読んだことがないから、上記のことはすでに広く知られていることかも知れない。

日本ではこの手の無くてもいいようなお説教を長々と垂れるのは司馬遼太郎である。勘弁してくれよ。

外国ではこのブログでよく取り上げるドストエフスキーも、この「弊害」がある。

もっとも、バフチンがいうように、イデーのキャリアーとして登場人物が縷説していることになるのかもしれない。