穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ロシア文学翻訳者諸君に与う

2013-07-14 08:48:19 | 書評
大きく出たね(ケッ)、前にも書いたが19世紀のトルストイやドストエフスキーのほとんどの登場人物は「貴族」なんだが、これがどういうものだか得体が知れない。

いま、カラマーゾフの兄弟を亀山郁夫訳で読み返していることは書いた。現在第二巻小学生のイリュージャがいじめにあっているあたりだ。これの親父が退役二等大尉で自ら貴族のはしくれと名乗る。注

そのあばらやをアレクセイが訪ねていくところがあるが、その小屋の描写を見ると大昔、*TA町に住んでいた同級生を訪ねた時のショックを思い出した。幽霊のような病人がほおけた髪を振り乱して汚れたゴザの上に寝ている。破れたボロを纏った小さな子供が群れていた。この二等大尉の小屋もそんな感じだ。

貴族と言うと日本の華族を連想するが、とんでもない落差だ。華族という言葉は明治になって日本で作られた言葉だと思う。無学だから間違っているかも知れないが。

うまい造語だと思う。日本では華族と言うと江戸時代の旧藩主、公家、それに明治政府で功績のあった高官に与えられた。

ロシアの翻訳小説を読んでいると、貴族というのは下級役人(9等官とか14等官とか)まで含むらしい。またこれが世襲か一代限りかも分からない。

あるいは日本で言えば従七位くらいかな。たしか旧軍隊では少尉でも将校は一応従七位は貰えたんだろう。ポツダム中尉なんてことばもあるし。

古代ローマでいえば、ローマ市民てな感じかな。ローマ帝国は奴隷とローマ市民で成り立っていたんだろう。

それもこれもロシア文学の翻訳者が怠慢でロシアで貴族とはなにを意味するか説明しないからなのだ。19世紀の小説を読むと、ロシアには貴族、町人、農奴という区分けがあったらしい。昔からあったのか、19世紀の後半からか知らないが。

亀山のカラマーゾフは誤訳が多いと評判が悪いようだが、こと「貴族」に関してはすべての翻訳者に共通のようである。
みんな、読んでいて気にならないのかな、ならないんだろうな。

注: 「、、わたくしはもう貴族などとは申せた義理ではございません。云々」亀山訳、第二巻、125ページ