カントが判断力批判の原稿を推敲出来なかった理由
第一の理由は寄る年波に焦ったことがある。カントが自分で書いている様に純粋理性批判、実践理性批判および判断力批判は予備的な考察であって、その上に面目を一新した形而上学を樹立するのが本来の目的である。
ようやく、予備部門を終わった時に彼は66歳になっていた。もともと虚弱な体質であった彼は体力、知力の衰えを自覚していたようである。「寄る年波」云々という言葉は彼がその頃書いた手紙の中で述べている。
実際に彼は判断力批判を出版した後十四年間生きたわけだが、彼自身にも予想外の事だったに違いない。そしてこの残りの十四年間で本来の目的である「形而上学」を上木していない。
最後の十四年間に膨大な遺稿を残した。それは彼の死後一世紀近く経ってから「オプス・ポストムム」としてまとめられた。メモのタイトルは「自然科学の形而上学的原理から物理学への移行」と題されていた。
という次第で、判断力批判の原稿を推敲する、あるいは清書するなどという時間の余裕はなかったのである(心理的に)。これが世評で分かりにくいと言われる三批判書のなかでも判断力批判がとりわけ意味のとりにくといわれる所以である。
文章の推敲はともかく、清書は大体妻がやるのが普通であるが、カントは終生独身であった。
第二の理由はスピードの問題である。思考するスピード、話すスピード、書くスピードとその速度は幾何級数的に遅くなる。きちんとした文章を書こうと(女子大生の様に)気を配りながら書いていたら、頭の中を飛び跳ねるアイデアは雲散霧消してしまう。従って文章は奔放に飛び跳ね、うっかりした書き違えなど頻出する。
勿論後で読み返して原稿の上に修正を加えるだろうが、女子大生の様に奇麗に清書するなどということはありえない。また、推敲を加え、意図が間違いなく伝わる様に文章を整序、推敲し、明晰化し、長い文章を論理的に整理してセンテンスを分ける等の作業をする余裕はなかったのであろう。
このことは、第一批判書、第二批判書でも言えるがとくに「寄る年波」にせかされていた第三批判書執筆の際に顕著に見られる。
一言此れを覆う、いわく「判断力批判は労作にして老作である」。以上