カントを三枚に卸す、いや元へ、カントが三枚に下ろす。魚なら三枚におろすのもいいかも知れませんが、哲学となると場合によるということでしょう。
だれでもそうかも知れない。ヘーゲルなんかも三分法が大好きだといったのは、コジェーヴだったか、ドントだったか、あるいは誰か他の人だったかも知れない。記憶がはっきりしませんが、正反合なんてのはそれだしね。
なによりもキリスト教が極めつけの三分法だ。神、精霊、神の子(キリスト)で、これでばっちりと決まった。キリスト教の成功はこの三分法につきるといってもよろしい。
カントの場合、形而上学(哲学)の予備学が三批判書です。しかしこの三冊の分け方が最適かどうかの説明をカントはしていない(寡聞にして私は知らない)。
また、三分法で漏れがないかも論証がない。読者は受け入れるしかありません。この分類が多すぎるのか少なすぎるのか最適なのか。認識、実践理性、判断力が最善の分類法なのか。
さて、その判断力ですがこれもテーマが三つに分類されている。いわく、美、崇高、目的論です。第一印象は随分ばらばらなものを一緒にしたな、ということです。美と崇高はひとかたまりです。だから大分類では二分法となる。これで判断力の扱う分野はすべて網羅したと言えるのでしょうか。その辺の説明はカントにはありません。
カントによれば判断力は悟性と理念の橋渡しをする機能があることになっている。ということは三枚卸しでは背骨にあたるといえましょうか。
判断力批判で一番興味をひかれるのは反省的判断力という独創的概念でしょう。現代でもかなり有益な議論と言えます。その辺は次回以降で。