幸田文「流れる」、一日5頁か10頁しか読めない。そこでまたカント。前にカントのアクメについて書くと書いたが、それは後回しにしよう。結論だけ言えば、1980年代初め純粋理性批判で終わっていると思うのだが、大事なので多少準備してから書かないといけないので。
今朝は判断力批判、熊野訳。大きな活字というのはいいね。心安らぐ。
哲学教師の逐条講義ではないが今日は上巻130頁の前後。美が万人つまり人類共通の判定になるはずだ、というくだり。ドクサだね。
適意であって個人的関心から没交渉なのが美の判定である、だから万人共通のはずだ、というのがカントのきもなんだがそうかな。これはカントのドクサだね。
余談になるが「適意」はもうすこしぴりっとした訳語はないなか。日本語で表現すれば「よみしたまう」という感じだろう。また「関心」という訳語むしろ「利害」と訳すべきではないか。英訳ではinterestとするようだが。
美的判断は個人が行っても「むしろ万人に代わって判断している」。そうですか。美の判断には個性もバラエティもないそうだ。これは芸術家の創造性を否定することにつながる。芸術批評の画一化、大本営発表化すなわち自由の否定に直結している。
おもうに、このように無理をしているのは、純粋理性批判で味をしめた方法論をすべてに適用しようとしているのではないか。ヒュームによって独断のまどろみから醒めたカントは経験論に傾くが、デカルトに始まり若い時に影響をうけたライプニッツの大陸合理論とも折り合いをつけたかった。そこで人間の知識は経験を素材にするが、それを加工するのは人間独自の生来備わる性能、仕様による。すなわちカテゴリーに基づき経験を認識や法則に構成する悟性である。コギトエルゴスムの呪縛ですね。
そこで存在の本質を不可知として「物自体」という媒介項を設けた。そしてそれだけじゃ完結しない。人間の悟性能力は古今東西個人に関係なく共通である、としなければならない。これもドクサだが偏差値的にみれば共通項として実用に堪える。あるいはネゴシアブルである。ネゴシアブルというのはおかしいか。学的検討、討議の対象になりうるとでもいうのかな。
このうまい手を美学にも適用したかったのだろう。美的判断はカントによれば概念は一切関係しないわけだが、それでも古今東西個人に関係なく普遍的に適用される共通の美的判断がある。というより普遍的に該当しなければそれは趣味判断であって、正しい美的判断ではない、とこうなる。
いずれにせよ、概念を媒介しない判定では(純粋理性批判でうまくいった)万人のあいだで折り合いを付けるのは難しいだろう。