どうしたんです。朝だというのにもう伸びてきた濃いひげでツートーン・カラーになった顔の医者が聞いた。
「洗面所で歯を磨いているときにコップを落として破片で切りました」と俺は答えた。
インチキくさい、こすからそうな顔の中年の医者は疑い深そうに俺を見た。言うことを信じていないらしい。
『そうか』と俺は気が付いた。歯磨きのコップというと今はほとんどプラスティックだな。それで軽いコップで指を深く切ったという供述が信用できないのかもしれない』。俺もプラスティックのコップをいつも使っているのだが、それが紛失して見つからなかったので先週から陶器のマグカップを使っていたのだ。
とり落したカップが洗面台にぶつかって割れた。跳ね返って床に落ちるカップを受け止めようとして出した手が、ちょうど欠けたところがぶつかり、小指を深く切り裂いたのである。動脈を切って血があふれ出した。小指と言えども、動脈が切れると血が驚くほどの勢いで噴出する。そういう経験は日常まずないので、ぶったまげてあわててそこいらへんにあったぼろきれを傷口に当てて止血した。
すでに遅刻しそうになっていたのだから歯なんて磨かなくてもよかったのだ。隣の席に座っている岡安久美子がいつも俺の口臭に苦情を申し立てるので、時間がないのに無理をして歯を磨いたのだ。
出社すると真っ先に医務室に行った。医者は応急処置で巻いてあったぼろきれをとると、おれを水道の蛇口の下に連れて行った。
「麻酔薬がないので痛いよ」と脅かすようにいうと、金属製の針金の植わった歯ブラシのようなものをとりだした。ニタニタとサディストのような笑いを唇に浮かべて俺の顔を見た。『ケチな会社だ。麻酔薬も置いていないのか。会社の医務室は』と呆れたが後の祭りだ。
水を出すとその下に指を持っていき、金属ブラシで小指の凝固し血や汚れをごしごしと削り落とした。医者は俺の顔を見ながらいつ悲鳴を上げるかと期待している。ところが痛くない。多分神経も切れてしまったのだろう。それとも医者に予告されてぐっと下腹に力を入れて身構えたからだろうか。おれにはそういう能力がある。
医者はつまらなそうな、期待外れだったような顔をして看護婦に合図をした。くたびれた廃馬のような長い顔をした五十年配の白衣の女が来て、小指をアルコールで消毒すると包帯を巻いてくれた。
医者はまだ疑念が解けないようで「本当はどうしたんです。どうして切ったんですか」とまた聞いた。医務室を出る前に医者の手を見ると左手小指の第一関節から先がなかった。おれが小指を詰めるのに失敗したと信じているらしい。
# 創作です、と断りを入れる。