じゃ、それできまりだ。女性恐怖症だったんだ、と禿頭老人が断定した。
いや、むしろ女性嫌悪症でしょう、と下駄顔老人が訂正した。
「女性蔑視症よ」と口をゆがめて補足したのはアルバイトの長南さんであった。
若い女性のくせにかわいい顔をして露骨なことを言う女だと第九は腹の中で十二指腸のあたりをを少し顰めた。
いや、私は断定したわけではありませんよ。座談のなかで聞いた話で見当をつけてみただけですから、と橘氏は慎重に発言した。
そのとき隣のテーブルの上にある換気扇が異音を発した。このカフェは禁煙でもなければ分煙でもない。そのかわりそれぞれのテーブルの間は三メートル以上離れている。その上各テーブルの上の天井には換気扇がある。煙を感知すると静かな音をたてて換気扇が作動する設計になっている。普段は換気扇の音は気にならないほど、静謐性を保っているのだが、この時はガーガーと異常な作動音を発した。
みんなはそのテーブルのほうを見た。首のあたりに入れ墨だかボディペインティングをしたガタイの大きな三十くらいの男と水商売風の赤く染めた長い髪を肩のあたりから前に回して乳の上あたりまでたらした女である。ふたりとも茶色の紙で巻いたたばこを吸っている。
「おい、換気扇が壊れたのかな」と下駄顔が呟いた。たばこのにおいは換気扇の為にこちらまでは届かない。
「あれはマリファナじゃないのか」と銀色のクルーケースの男が言った。煙草を吸っていた二人ずれもびっくりしたように天井を見上げながら煙を吐き続けている。
「それで」と第九が橘氏に聞いた。「ほかの診断の可能性もあるのですかのですか」
「ウム」と彼は小さくうなった。「なんというのかな、もう少し傍証が必要でしょうな」
「たとえば?」
橘氏はパチンコ労働で荒れ気味の手のひらでピタピタと自分の顔を叩いた。
「あなたは異常に臭覚が発達していると言ったが、ほかの感覚はどうです。たとえば、聴覚とか視覚とか。非常に気になる音があるとか」
第九はしばらく考えた。「そうですね。音にはかなり神経質かな」
「たとえばどんなことですか」
「前にいたマンションですがね、上の部屋の住人がフローリングにしたんですが、それ以来いろいろな騒音が下の階にもろに響くようになった。それも子供が跳ね回るとか、掃除で家具を動かすとか想像がつく生活音ならうるさいな、と思うだけなんですが、電動機械を作動させているような音が頻繁にしたのです。町工場じゃあるまいし、何をしているんだろうと非常に気になりました。過激派が爆弾でも作っているのかと心配でした」
それで苦情をねじこんだんですか、と橘氏が質問した。
「いえ、我慢しました。マンションなんて言うのは壁一枚、天井一枚で隣人同士ですしね。エレベーターでも頻繁に顔を合わせるしね。苦情をいうと逆恨みされてエスカレートするなんて事件の報道がしょっちゅうテレビで報道されるでしょう。それで我慢していたんですけどね。騒音というのは真下の部屋ばかりではなくて鉄筋コンクリートの建物では左右上下広い範囲に伝わるものらしいですね。とうとう管理組合が苦情をまとめてその部屋の住人に注意したらしい。マンションの掲示板にも警告をだしました」
「それで静かになりましったか」
「少しはね。タオルを巻いてから電動機械を使うのか、すこし音がこもったようにはなりました」
「なるほど、しかし今の話は特に音に神経質ということでもなかそうだ」
第九はしばらく橘氏の見解を頭の中で反芻していたが、「そういえば、」と口を開いた。
「参考になるかどうか、私は地下道などで下駄のような靴音を聞くと非常に不快になりますね」
「いまどき下駄をはいて歩いている人はあまりないでしょう」
「ええ、下駄じゃないんですけどね。女性でハイヒールで地下道を駆け回る若い女がいるでしょう。急いで遅刻しないように焦っているのかどうか。地下道のコンクリートの上を駆け回るとものすごく反響するんですね」
「そうそう」
「それと階段を駆け下りる女がすさまじい音をたてる」
クルーケースの男が言った。「ハイヒールだけじゃないですよ。サンダルみたいなのを履いているいるのがいるでしょう。あれもすごい騒音だね。階段なんかを降りるときには」
「それに足首がすりむけるのか、留め具をきっちり止めずにルーズにしているでしょう、大体。そうすると余計五月蠅いんだよね。僕なんかもそんなのが後から来ると振り返って睨みつけますよ」
「まあそうだろうが、夏目さんも真っ先に女性の下駄音が頭に浮かぶというのは面白い。気に触るものが白粉、香水、ハイヒールの音とくると、やはり女性嫌悪症が疑わしいかな」と橘氏が診断した。