穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

35:雲量10パーセント

2019-10-15 19:36:58 | 破片

 江東区の天守閣から見渡す空は雲量10パーセント雲高3000メートルで視界は100キロメートルに達していた。北方には筑波山が黒々と見える。ケーブルカーがキラキラ光を反射してるのが見える(これはうそ)。相模湾から侵入して首都西部上空を通過して関東平野を北進し大被害をもたらした台風二十九号は東北岩手県沖合に去った。

  恐ろしい一夜であった。五十階のベランダの隔壁は今にも破れそうに一晩中歯ぎしりのような音をたてていた。幸い(と言っては被災した地方の人たちには失礼だが)城東地区の被害は二週間前の台風二十号ほどのことはなかった。二十号では強風が換気扇から逆流して室内の床の上に黒い綿のようなごみが一面に落下したが、今回それはなかった。恐ろしい音を一晩中たてていた隔壁やガラスの仕切りも朝起きてみるとひび割れが起きていない。雨よりもとにかく音がひどかった。洋美はさすがに女である。一晩中第九にしがみついて震えていた。そんなわけでベッドに粗相をして以来パワハラを受けていた妻からの攻撃もひとまず休止となっていた。

  ここ数日床の上に直に一人で寝かされて、地獄の底に落ち込んだように意気阻喪していた第九も晴れ渡った空を見上げてひさしぶりに「カフェ」に行くことにした。ところで気が付いてみると、このカフェはまだ名前がない。以後「ダウンタウン」と命名しよう。伸び放題の髭をあたり髪に櫛をいれて出来るだけやつれた姿を見せないように身支度をすると定食屋で昼飯を掻き込んでからダウンタウンに行った。

 「おや、ずいぶんご無沙汰でしたな。お元気でしたか」とやつれた第九の顔をしげしげと観察しながら禿頭老人が卵方の顔に笑顔をつくって迎えた。

「ええ、ちょっと風邪をひきましてね」

「夏風邪はひどくなるから気を付けないとな」と下駄顔が言った。

「そう、いまごろ風邪をひくとなかなか治らないからね。気を付けないと」

久しぶりに顔を見せた第九の姿をみて女主人があいさつに来た。

「しばらくお出でにならないので夏目さんはどうしたのかしら、って噂していたんですよ。どこかに旅行にいらしていたんですか」

「質の悪い風邪を引いたんだってさ」

「まあ、そうですか。もうよくなったのですか」

「ありがとう、おかげさまで」

女主人は目をすぼめてじっと彼を見ていたが「すこしお痩せになりましたね」

「そうですね。一週間ばかり夢うつつの状態でね。ようやっと目が覚めたという感じです」

「コーヒーはいつものとおりで?」

「いや、一週間ぶりに目が覚めるようにいつもより増量してください。砂糖もね」

「どのくらい?」

「そうですね、コーヒー大匙三倍、砂糖は二十グラムほど」

「それだけ濃くすればいっぺんにしゃきっとしますね」

 

女ボーイが持ってきたコーヒーを一口飲むと、第九は満足そうに頷いた。

「ところで又妙な夢を見ましてね」と下駄顔老人に話しかけた。

「またというと」と老人はポカンとした顔をした。

「空襲警報のアナウンスを夢の中で聞いたんです」

「空襲警報の放送なんて聞いたことあるの」と老人は疑わしそうな表情をした。

「もちろんありません。戦争中は生まれていなかったんだから」

「じゃあテレビドラマかなんかの中で聞いたのかな」

「さあ、それははっきりとは思い出せないんですけどね。すくなくとも記憶にはないのです」

「どんな風に言ってました」

「空襲警報発令とかアナウンサーが言ってね。それから『敵機大編隊が相模湾上空から侵入、帝都に向かいつつあり。厳重な警戒を要す」みたいな。それからウーウーウーという警報が流されましたね」

 禿頭老人が口をはさんだ。「そういえば救急車のサイレンが今のピコピコ言い出したのはいつごろからだったかな」

「さあ、ずいぶん昔でしょう。昔はどんな音だったんですか」

「空襲警報と同じさ。ウーウーウーって鳴らすのさ」

「へえぇ」

下駄顔が話を戻した。「あんたの言うとおりだったと思うよ、大体は」

「まるで昨日の台風の進路と同じみたいね」と女主人がつぶやいた。

「そうなんですね、それでちょっと妙な気がしてね。しかも聞いたこともない空襲警報発令の放送まで夢で聞いてね」

「ははぁ」と下駄顔が膝を叩いた。「わたしも台風はまるでB29の襲来経路と同じだと昨日思った。アメリカさんは富士山を目印にして相模湾から本土に侵入して東京に向かったからね。その時に無意識下で、阿頼耶識の第七層あたりで空襲警報のことを思い出したかもしれない」

「アラヤシキって人の名前かなんかですか」と女主人が首をかしげた。

「いやいや、仏教でいう無意識ですよ。フロイトの無意識には単純な平屋で階層なんてないが、仏教では無意識は何十層もあるんですよ。タワーマンションみたいにね。そういえば、あなたは何時か後楽園の高射砲陣地のことを聞かれましたな。あの時も冗談に私の子供の時の記憶が剥離して飛んで行ったかもしれないなんていったが」

「ああ、そうでした」

「しかし、あなたも相当に感度がいいアンテナをお持ちのようですな」

「そうでしょうか、ご老人の記憶の飛翔力も大変強力のようですが」

「ははは、別の言葉で言えば脱魂と憑依ということですかな」