穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

34:妻のジム通いのこと

2019-10-10 08:28:01 | 破片

 二度寝の味寝(ウマイ、失礼ながらルビをふらせていただく)にようやく落ち込んだ第九はまた脇腹を邪険に突かれた。洋美がすり寄ってきた。体が異常に熱い。これはまずいな、と思ったと思う間もなく彼女の太い二の腕が伸びてきた。週に二度はジムに通って鍛えている体である。ヒョイと持ち上げられて彼女の腹の上に放り上げられた。気が付いた時には彼女の腹の上に跨っていた。こうなれば抵抗するとかえってまずい。習慣的なギッタンバッコが始まった。

  週二度のジム通いで彼女の腹筋は鍛え上げられている。第九の体はしけの海の小船のようにはげしく動揺した。彼はジョイントが外れないように彼女の体にしがみついた。ジョイントが外れると彼女はそれが彼の責任であるかのように猛烈に怒り出す。彼はめまいがしてきた。失神するのはエレベーターの中だけではないらしい。

  とその時爆弾が破裂したような音がした。第九ははっとして意識を回復した。洋美の全身の筋肉も防御態勢を取るかのように収縮した。続けて二人の耳に二度目、三度目の爆発音が響いた。隣の部屋の男(女かもしれない)が慣例の早朝くしゃみを思いきり連発したらしい。なんだ、ヤツの例のくしゃみか、とおかしくなった。彼女も笑い出した。鍛え上げた全身の筋肉が弛緩した。たくましい腹筋を震わせて笑い出す。途端にジョイントが外れて彼はいったん上に放り出されてからうつぶせの姿勢のまま落下した。彼女のたくましい裸身の肩に鼻梁をぶつけた。

  しまったと思う間もなく、間髪を入れず、というより一拍おいてから鼻孔からヌルヌルした液体が流れ出した。あわてて彼は鼻の穴を右手の甲で抑えながらよろけるようにベッドから滑り降りティッシュを求めて真っ暗闇の寝室をメクラ滅法に動き回った。鼻血はベッドの上一面にまき散らされ、床のじゅうたんにこぼれた。「どうしたのよ」と洋美は暗闇の中で怒鳴ったが、手がベッドの上に落ちた血だまりの上に触ると慌てて手を引っ込めた。さっと立ち上がると狙い過たず一発で電灯のボタンを探り当ててスイッチを押した。

  彼女は寝室の惨状を目にして絶叫した。隣室のくしゃみよりも数倍大きな声であるから、隣室の住人にも聞こえたに相違ない。聞き耳をたてているのか隣室はシーンとしてしまった。驚いてくしゃみもとまってしまったらしい。

  四十路に達しようかという女性でもある。キャリアウーマンとして、会社では若い男たちをパワハラまがいに叱咤する彼女であるが、やはり女である。少女趣味のバカでかいキンキラキンの「豪華」ベッドが部屋のスペースの80パーセントを占領している。マリー・アントワネットが寝ていたような天蓋つきのベッドである。このベッドは二百万円以上したらしい。それが血潮で回復不能なまでけがされたのである。彼女の怒り方が尋常ではないのもよく理解できる。