記憶の細片が剥離して空中を飛行浮遊するというのはオカルトの世界ですが、魂が空中をうようよしているというのは結構一般的な話ですね、と第九は応じた。「それでそういう彷徨える魂が格好のカモを見つけて急降下して取り付くなんて言う説がある。そういうのを憑依というんですかね」
「そうだね、日本では古くから言われていることだ。もっとも仏教系ではなくて神道系や修験道系で言われることがおおいようだが」
「ところで魂というのは総合体なんですか」
「総合体というと」
「例えば生きているときは人格があるというでしょう。人格というのはもろもろの心的機能の総合した塊じゃないですか。死ぬと魂が肉体から抜けていくというが、その場合の魂というのは生きていた時の人格的総合体と同じなんですか」
「うーん」と禿頭は唸った。「いい質問だね」。いい質問だね、の謂いは答えられないときに発する時間稼ぎである。
一座はシーンとしてしばらく静かになってしまった。とうとう下駄顔が言った。
「それにはいろんな説がある。一般的にはそれは生きていた時の塊と言うか連合体というか総合体だが、諸説あるようだ。戦前の国家神道のビッグネームでミソギを体系化した川面凡児((カワツラボンジ)いう人がいるが、彼なんか魂は八百万の粒子からできていると言っていた。そして死ぬとそれがバラバラになる。もちろん、ある程度のまとまりを残している場合もある」
「それで、八百万の原子魂はどこへ行くんですか。全部空中に浮遊しているんですか」と哲学専攻ながら若い女性らしくこの種のスピリチュアル系のおとぎ話には滅法弱い長南さんが訊いた。
さあね、と長南さんの若い女性らしいしつこさに辟易したように下駄顔は前方に反りだした顎に生えた無精ひげをなでた。「一部は成層圏を突破して宇宙のかなたに行くんでしょうな。若い女性が好む表現を使えば『お星さまになった』んですよ。しかし、神道では大部分は低空で浮遊しているらしい。平田篤胤もそう言っている」
「平田篤胤って」と長南さんはあくまでもしつこく聞く。
「幕末の国学者ですよ」と見かねて橘さんが口を挟んだ。
「どうして空中に留まるんですか」と質問魔の長南さんがねばった。
「それはね」と下駄顔が幼児を諭すように話した。「地球の重力に逆らえないんですよ」
「なんでですか」
「なんでって、魂のかけらだって微小ながら重さがあるからですよ。地球の重力を突破できないのさ」
「なんだかライプニッツのモナドみたいね」とあきらめたように長南さんが呟いた。
「八百万個の原子タマシイが夫々自分の中にミクロコスモスを持っているならモナドだけどね、むしろレウキッポスのいうアトムじゃないのかな」と橘氏が補足した。
「そういえば」と思い出したように第九が言った。「私のマンションに国内線のパイロットが住んでいるんですがね、釜石あたりの上空を夜間飛ぶと魂が浮遊しているのか鬼火のようなものが燃えているのが見えるそうですよ。特に新月の夜などにね」
「つばさよ、あれがタマシイだ」というわけだ、と禿頭が受けた。