女主人が疑わしそうに聞いた。「神道では昔からその、粒子説なんですか」
「おくさん、その辺は詳しくないんですよ、そちらのほうは専門ではないので」と橘さんは頭髪を後ろから前に撫でた。短く刈っているし、短いのでそういう芸当が出来るのである。
「どうなんですかね、菅原道真なんか怨霊になって京都に現れたというから、生きていた時と同じカタマリだったんじゃないですか。八百万にも分割したら京都在官時代のいじめられた恨みなんて保持しているわけがないもの」と理路整然と長南さんが主張した。
「キリスト教や仏教ではどうなんですか」と奥さんがさらに追及した。
「さあ、どんなものですかな」と橘さんはしばらく考えていたが、「やっぱり生前と同じ人格、人格というのはおかしいが、そういうカタマリを維持しているという前提でいろいろと言っているようです」
「仏教の地獄だとか閻魔様の取り調べなんて言うのは生前のカタマリじゃないと、分解していしまっていたら追求のしようがないですからね」と奥さんがうがったような意見を開陳した。みんなびっくりしたように奥さんを見た。
「それにキリスト教でいう最後の審判なんていうのも、生前の魂が全体として残っていないと意味をなさないね」と気が付いたように第九が言った。
「ところで人格と言うか性格は生前でも変化するでしょう。成長につれて性格が変わらない人もいる。かと思うとどんどん悪くなる人もいるし、逆にだんだん真人間になる人もいまさあ。そうするとどうなんだろう、死後の魂も変化しないとおかしいね。水平飛行の魂もあるし、よくなる魂も悪くなる魂もなければおかしい。その辺の変化を勘定にいれているんですかね。仏教とかキリスト教は」
これには橘さんは即答した。「いれちゃいませんよ」
「宗教ってずいぶんいい加減なものなのね」と長南さんがあざ笑うように切り捨てた。
「そういえばさ、よく駅前で、暮れになると、陰気な声の録音を流しているのがいるだろう。『悔い改めなさい。そうすればすくわれる。まだ間に合う』なんてぞっとする声の録音を流しているのが」
「あの声を聞くと小腸から冷凍されてくるね、ぞっとするよ」
「いるいる、今年もそろそろ出てくるころだな」
「彼らに聞いたってわかっているわけはないが、死んでからもしタマシイが悔い改めたらどうなんだろうね。間に合うのかな。それとも死ぬ前に悔い改めないとだめなのかな」
「まだ間に合うなんて無責任なことを言っているが根拠があるのかな」
「要するにだな、魂は死後腐るか、腐らないかということだろう」と下駄顔が決めつけた。
「肉体のように腐敗するのか、そうではないか。なるほどね。しかしその問題を取り上げた宗教も哲学も皆無のようですね」と橘さんが言った。「素朴に魂は死後も腐らず、あるいは変化せずというのかな。かなり迂闊な前提に立っているようだ」
「生前は人間の魂は向上する人もいれば、堕落する人もいる。それが死んだあとは永久凍土に埋もれたマンモスのように千年も万年も変わらないというのもずいぶん素朴な考えですね」と第九が述べた。