それまで珍しく下を向いて考えていた若き女性哲学徒の長南さんが質問を発した。
「エロ小説って自分の体験を書くんですか」とハッタと下駄顔老人の顔を正面から直視した。
思わぬ奇襲攻撃を受けて彼はちょっと驚いたように彼女を見返した。
「それは貴女小説ですからね。虚実織り交ぜてごまかすんでさあ」と言いながら顎の無精ひげを撫で上げた。いかつい大きな手で年相応に節くれだっているが、爪はきれいに切りそろえてある。タイプライターを毎日打っているからつめの手入れには気を付けているのだろう。
若き女性哲学徒は追及の手を緩めない。「書いているうちにやはり興奮してきますか」と聞いた。老人は感心したように彼女を見返した。「そりゃあ貴女多少は感情移入しなければ迫真の描写は出来ませんからな」
「興奮するとどうなるのですか」と彼女はあくまで追求した。
どうも弱ったなという風に老人は口ごもったが、「下っ腹が張ってきますな」と観念したように白状した。
「下っ腹が張ってくるとどうなるんですか」
第九は彼女が無邪気なのか、探求心に忠実なだけのかよくわからなかったが、「そんな殺風景な質問はこの辺までにしましょうよ。あなたにもそのうちに分かってきますから」
と仲裁に入ったのである。彼女は不満そうであった。別にカマトトを装っているわけでも無さそうだったが。世の中が進歩すると不思議な女が出てくるものだ。
下駄顔はほっとしたように長い吐息をついた。
「それでプラトンは読んでみてどうでした」と第九は助け舟を出した。
「どうもこうも、不愉快になりましたね」
「それは分からないからですか」と橘さんが遠慮なく言った。
「何を買ったんですか」
「短いほうがいいと思ってね。『ハイドン』、『ラケス』、『メノン』だったかな」
「それは初めて読むにしては特殊だ」と橘氏が言った」
「どういうところが不愉快だったんですか」
「解説によるとプラトンの対話篇というのは問答法というらしいが、あれは問答じゃなくて尋問だね。それも非常に卑劣なやりかただ。ちょうど、警察の取調室で刑事や検事が取り調べるときのように、質問するのはソクラテスだけでしかも質問する理由も説明しない。刑事が被疑者に対して、『質問しているのは俺だ、お前は答えるだけでいい。なぜそんな質問をするのかなどお前に説明する必要がない』とどやしつけているのと同じじゃないですか」
「ふむ、言えてるね」と橘さんが言った。
「プラトンの本はみんなあんな書き方なんですか」
「ほとんどはね。しかしそうではないものも若干ある。あなたは『ソクラテスの弁明』とか『饗宴』を最初は読んだほうがよかったかもしれない」