店内に野太い老人の声が響いた。下駄顔が店に入ってきて橘たちを見つけて傍に座った。「今日は早いですな」と声をかけた。「今日は早々とノルマを達成したらしいですよ」と第九が教えた。
老人はエスプレッソのダブルを長南さんに頼んだ。
「今ね、この間話していたプラトンの話をしていたんですよ。彼女が読んでね、ソクラテスは有罪だという判断をしたんですよ」
「へえ、どの本ですか」
「ソクラテスの弁明です」
「ああ、この間、あなたが勧めた対話篇ですな。まだ読んでいないな」
長南さんがエスプレッソを運んできた。
「わたしにも話を聞かせてよ。今日は客も少なくて暇らしいからここに座ってさ。ママもまだ来ていないみたいだし」
下駄顔に勧められて彼女は仏頂面でドスンと腰を下ろした。彼女はいきなり口を大きく開けると長いしなやかそうな指を口の奥深くに突っ込んだ。みんなが度肝を抜かれてみているが、彼女は一向にその視線が気にならないらしい。奥歯に何かが挟まっているのか、それをせせりだそうとするように無心に指を動かしている。
やがて口から指を引っこ抜くと人差し指の先端をしげしげと確かめている。テーブルの上から紙ナフキンを取り上げると指先をぞんざいに拭いた。
彼女はおんなじ話をするのは面倒だと思っているのだろう。第九はふと思いついて「そういえばね、私も気になることがあってこの間読んだんですよ」
「ソクラテスの弁明ですか」
「ええ、そうなんですがね、ただしクセノポンが書いた同名の本なんですがね」
「誰だって」と老人が驚いたように大きな声を出した。ポンが付いているから麻雀の本と思ったのかもしれない。
「クセノポン」と第九は繰り返した。
「有名な人なのかい」
「割と知られた名前じゃないかな。岩波文庫にもアナバシスという歴史書がある」
「歴史家なんですか」
「そうなんでしょうね。若いころはソクラテスの弟子でその後軍人になって海外遠征をしている。帰国してから何冊か本を書いているらしい。そのなかにソクラテスの弁明と言うプラトンと同名の本がある。私も知らなかったんですけどね。この間橘さんが話されたんで大昔に一度読んだプラトンのほうの『ソクラテスの弁明』を読もうと本棚を探したんですよ。本棚と言うほどの代物でもないけどね。しかしもうない。引っ越しの時に捨ててしまったんでしょうね。それで本屋で探したらある文庫で、岩波じゃないんだが見つけましてね。それで帰って中を見るとプラトンの弁明の後ろにクセノポンの弁明の翻訳もついていた。プラトンに比べる短いものですがね。橘さんはお読みになったでしょう」
「さあ、どうだったかな。はっきりと憶えていないな。それでどうなんです。プラトンと較べて」
「例のデルポイの神託の話なんですけど、プラトンと全然違うんですよ」
「そうなの」と長南さんがやや興味を抱いたようであった。膝を両手で抱えてテーブルの上に身を乗り出した。
第九は二つの書物の違いを説明した。さっき彼女が言ったように『ソクラテスより知恵のある人間はいない』じゃなくて、ええとと言葉を詰まらせた。「馬鹿に長いんでね、正確には憶えていないが、」
「いいじゃないか、どうせ翻訳なんだから」と橘
それじゃ、と第九は始めた。「こんなかんじだったな、『人間の中でこの私(ソクラテス)より自由な人間もいなければ正しい人間もおらず、節度に満ちた人間もいない、と答えられたのです(神託を取り次いだ巫女が)』。たしかそんなことだった」
「全然違うわね。どうしてこんなことが起こるのかしら」
「さて、そこですよ。私はこんなに違う記録があるのに、プラトンの注釈者が2600年にわたって全然疑義をはさまなかったのが不思議でね」
「それは妙だわな」と下駄顔
「それで私は考えるのですが」と第九は続けた。