長南さんは再び第九たちの前にどっかと腰を下ろした。
「こないだの話を聞いて『ソクラテスの弁明』を読んだんですよ」と憂い顔で長南さんは話し始めた。
「どうです、読みやすかったでしょう」と橘さんが探りを入れた。
「そうですね、ずーっとソクラテスが法廷で訴えられた件は無罪です、と話すわけね。今でいえば被告人陳述とでもいうのかしら。当然法廷だから訴えたほうからの弁論もあるはずだけど、それは書いていないわね。ただ、訴追理由は書いてあって」と話し始めてから、二人を見て「あらそんなことは先刻ご存知よね」と言った。
「いやいや話の順序としては必要ですよ。たしか訴追理由は二つありましたよね」
「そうですね、それじゃお二人とも先刻ご案内と思いますが、訴追理由の第一がポリス(アテネ)の神を信じないとか、異国の神とかダイモニオンとかいう怪しげなオカルトっぽい存在の指示を信じたとかいうんでしょう」と橘氏に確認した。
「二番目は怪しげな言説で青年たちを堕落させたというので訴えたわけです」
「それで貴女は二つとも有罪と思うんですか」
「一番目は明らかにそうですね」
「これは手厳しい。どうしてですか」
「デルポイの神託の話が出てますよね。それが『ソクラテスより知恵のある人間はいない』というんですね」
「そうそう。それが不敬罪と関係があるんですか」
「そこまではないわけ。喜んでありがたくお告げをお受けしておけばいいものを、ソクラテスは本当かな、と疑ったわけ」と言うと水を一口飲んで喉を潤した。
「しかも、神様の言葉をためしてやれ、というので当時の有力な政治家や有名な詩人の所に押し掛けて言った頓智問答めいたことを仕掛けたんです。そうしたらやはり自分のほうが賢いことが証明されたと法廷で述べています」
「なるほど、たしかに『弁明』で本人が言ってますね」
「これって不敬虔の最たるものでしょう。神を信じないで試すなんて」
橘さんが感心したように膝を叩いた。「いやお見事、確かにその通りだ。キリスト教でもいう、神を試すなってね」
「仏教でも言いますよね、仏は思議すべからずってね」と第九。
「それで二番目の告発も有罪ですか」
「青年を堕落させたということですか。これは何とも言えませんね。実情がわからないんだから」
第九が口を開いた。「それで第一の訴状に対する量刑についてはどう思いますか。いくら何でも死刑と言うのは重過ぎると思うが」
「ええ、告発はもっともだと思いますが、量刑はちょっとね、実際のところ、裁判で争うことかっていう違和感がありあすけどね」と長南さんは世故に長けたおばさんのようなことを言った。
「しかし、なにしろ2600年前の時代だ。ヨーロッパでは中世でも神を信じないというので火あぶりにした宗教裁判もあったし、近代になってからもアメリカでは魔女狩りで沢山の人が刑死している。現代だって、宗教国家では同じことがあるらしいし、独裁国家では指導者の顔写真が載っている新聞をちり紙に使ったというので処刑される国があるそうだから、死刑と言うこともあり得たかもしれないな」と橘さんが述懐した。
「それで気が付いたんだが、デルポイの神託のはなしですが、全然違う話もあるようですね」
橘さんがびっくりしたように聞いた。「どんな話です」
「クセノポンの書いた同じ題名の『ソクラテスの弁明』というのが残っているが,神託の内容がまるで違うし、ソクラテスが神託を疑ったという話でもない」
「それでは今度は夏目さんの話を聞きますかな」と橘さんに促された。