どうしてだい、と下駄顔が不審顔で橘さんに尋ねた。
「プラトンの対話篇といっても種々ありましてね。あなたのいうように理不尽な尋問形式なのが多いのだが、」というと彼は充血した眼をごしごしとかいた。今日はパチンコで大損をしたらしい。目が血走っている。一時八万円ほどへこんだのをようやく五万円ほど回復したという。へとへとに疲れた様子である。
「だいぶ昔に読んだから記憶を呼び戻すのが大変でね」と大きくため息をついた。
「いや、いいんですよ。それじゃ『ソクラテスの弁明』でも買ってみますよ」
なにね、こういうことなんですよ。とかすかな記憶をだとりながら橘さんは話し出した。
「プラトンがお得意の二分法を借用するとね、対話編ではソクラテスが主人公のものと、聞き役というか脇役のものがある」
「尋問をしないのがあるのかい」
「そういうのがある。尋問しないやつをさらに二分すると、ソクラテスが聞き役というか話の引き出し役のものと、彼が一方的な話者か複数の話者の一人の場合だ」
「なんですい、複数の話者というのは」
「さっきあなたに勧めた『饗宴』がそれです。ある酒席で数人が集まり、それぞれエロスについて自説を述べ合う、順番にね」
「デカメロン形式ね」と女主人は納得した。
「そしてお互いに話したことに感想は述べるがしつこく尋問調で追求することはしない。だから叙述の形式としてはあまり抵抗がなく読みやすい」
「なーる。それで為になりますか」
「あんまりならないね、みんな他愛のない話だ」というと彼はお冷をぐいとあおった。
「なかにこんな話をしたのがいたな。大昔は人間に手が四本、足が四本あったというのは知っていますか」
「しらねえな」
「ま、そういう話なのさ、それで人間がだんだん増長して生意気になった。それで神様が懲らしめるために人間全部を二つに裂いてしまったのさ。それで今の人間は手が二本で足が二本になった。性器も同じものが二つ付いていた」
「へええ」
「まだあるんだよ、人間が二つに咲かれる前にも人間には三種類があったというんだね」
「どういうことなんですか。男と女の二種類じゃないんですか」と長南さんは俄然興味をしめした。
「ちがうんだな。昔もオトコオンナというのがいたのさ。雌雄同体というやつだね」
「それでさ、男の四本脚は二つに体を裂かれても昔の半分を求める。つまりゲイだ。女の四本脚は裂かれた前の自分の半身を求める。これがレスビアンだ。雌雄同体の四つ足人間は男部分と女部分に裂かれたからそれぞれ男は女を求め、女は男を求めるわけだ」
「だれがそんな話をしたんです。その登場人物の名前はどうなっているんですか」と女主人がきいた。
「たしかアリストファネスでしたね」と橘氏は答えた。
「あの有名な喜劇作者のですか」
「そのようですね」
「それで『ソクラテスの弁明』もそんななのかい」と下駄顔がきいた。
「いや、またすこし違う。裁判所での陳述という設定だから長いモノローグです。だから読みやすいでしょう」