第九は小一時間ほど朝の行事をすますモニターで外の様子をチェックした。朝の行事というのは分かっているだろう、顔を洗ったり、髭を剃ったり、頭に櫛をいれたり、各種排出をすませたり、外出用に着替えたりすることである。もう奴らもいなくなっただろうとモニターを見ると無人だ。もっとも廊下の角あたりで待ち伏せしている可能性もある。
ドアを開けるとするりと廊下に出た。なるだけ音がしないようにドアを閉めて鍵をかけた。
管理組合の連中にも合わずに外に出た。街路に出ると昨夜の風で落ちた茶色い枯れ葉が道路を覆っていた。メトロで盛り場に出ると当てもなく初冬の心地よい街をぶらついた。しばらくして歩数計をのぞくと三千歩を稼いでいた。定食屋で早ヒルをすますと大型書店を巡回する。歩数計をみると五千歩だ。
ダウンタウンに行ってみると時間が早いせいか、店内は閑散としている。店内には橘さんしか、知り合いの常連はいなかった。彼の前には長南さんがデンと座っている。客が少なくて暇だから客の前に座って話をしているのだろう。彼らのそばの席に腰を下ろすと
「今日はお早いですね」と挨拶した。今日は景品の紙袋もない。今日は午前中で手ひどくやられたかな、と思った。それともと思って「今日は仕事はお休みですか」と聞いた。
「いや、もう一仕事しましてね」と彼はニコニコしている。
「新規開店の店に行ってね、いきなり大当たりの連鎖反応ですよ。二時間でノルマ達成でした」
「へえ、お見事ですね」
「あんまり欲をかかないことが大切でね」
第九が不思議そうに彼の周りを見回しているので、「今日は全部現金に変えました。景品に変えると持ちきれないのでね。長南さんになぜチョコレートを持ってこなかったのか、と怒られていたところです」と苦笑した。
長南さんがあいまいな笑みを浮かべると席を立ちあがりながら「何にしますか」と第九の注文を取った。
「インスタントコーヒーをスプーン山盛り五杯とグラニュー糖二十グラムでお願いしましょうか」
彼女が注文を通しに配膳カウンターのほうへ行くと橘氏は「彼女とプラトンの『ソクラテスの弁明』の話をしていたんですよ。彼女はソクラテスは有罪で当然だというんです。なかなかユニークな意見でしたよ。あなたは弁明を読んだことがありますか」
「学生時代にね。ソクラテスの弁明を否定してアテネ市民の有罪判決に賛成だというのですか。たしかにユニークな意見だ」
彼女がコーヒーを載せたトレイを運んできてテーブルにセットした。橘さんが言った。
「あなたのさっきの意見を夏目さんにも話してあげなさいよ」