謹聴、謹聴。二千六百年ぶりにプラトンの『ソクラテスの弁明』に校正が入ります、と橘さんがはやし立てた。背筋に定規をあてがわれたように第九は背中をピンと伸ばして緊張気味に話し始めた。
「さて、かのソクラテス裁判で彼が陳述したというデルポイの神託のくだりですが、プラトンとクセノポンの記述がまったく違うというところをご指摘させていただきましたが、どちらが正しいのかということを弁じたてます」
「弁じたてます、というのはおかしいぜ。活動写真の弁士みたいだ」といつの間にか来店していた卵あたまの老人が注意した。
下駄顔も「おれも大昔に活動写真を見たことがあるが、令和の御代に久しぶりに聞くとぎょっとするぜ。二十一世紀だろう。申し上げますとかお話ししますと言ったほうがいい」
老人たちのいれたチャチャに第九はいささかむっとした顔をしたが、「それでは、その経緯についてわたくしの推測を弁じ、いや申し上げます」
老人たちはパチパチと手を叩いた。橘と長南は興味深そうに耳を傾けている。
「最初に結論を申し上げますが、史実としてはプラトンの記述は間違いであります」
第九はコップのお冷を一口飲むとモップで拭うように舌を出して上下の唇を嘗め回した。
「まず記述者の違いを申し上げましょう。いうまでもなくプラトンは裁判当時ソクラテスの現役の弟子でした。ソクラテスは七十歳、プラトンは二十八歳でしたから、弟子の下っ端のほうでしたでしょう。勿論裁判には被告側の介添え団の一員として参加しておりましたが、おそらく忙しく立ち働いていてどっかりとソクラテスのそばに座って最初から最後まで一字一句弁明を聞いている余裕はなかったと思われます。また裁判所には多数の人間が蝟集していて、マイクもない時代ですからソクラテスの陳述をもれなく聞き取れたか疑問です。なにしろ裁判員だけでも五百人いたうえに傍聴人はそれ以上いたでしょう。それにソクラテスは法廷での陳述は慣れていなくて初めて法廷で大観衆の前で話すから、声もよく通らなかったと考えるのが妥当です。現代でもすこし学生の人数が多いと大学の授業でも先生はマイクを使います。アテネ中の人が集まる会場で隅々まで演説を響かせることなど職業的な法廷弁論人でもなかなか難しいでしょう」
第九は話を続けた。
「プラトンは師がデルポイの神託の話をしていたことは理解したのでしょうが、どういう風に話したかは聴取していなかったと思われる。しかし、ソクラテスは弟子にデルポイの神託の話はよくしていたと思われる。だからああ、あの話だなと思って平常話していることをそのまま対話篇に入れたと考えられる。
しかし、ソクラテスはデルポイの話を違った風に作り替えた可能性がある。おそらくクセノポンの伝えるのが正しい。なぜ話を作り替えたか、それは明瞭ではないでしょうか。長南さんが鋭く指摘したように弟子たちにいつも話しているように語れば不敬罪の大罪に問われる口実を与えることになる。それで即興で話を作り替えた。なにしろソクラテスは神託で『彼以上に知恵のある人間はいない』と言われたのですから、そのくらいのことは察しがつきます」
「弁士中止!!」と大声で連呼したものがいる。橘である。みんながびっくりして彼を見ると「いや、冗談ですよ。いまみたいな話をプラトンの講釈で飯を食っている大学教師の前でしたら、弁士中止と制止されるだろうということです」と無邪気に笑った。
第九はほっとしたようで「最後にクセノポン側の情報源を手短に申し上げましょう。裁判当時彼は海外遠征中で、あとでソクラテスと親しかったヘルモゲネスという人から裁判の様子を聞いて、書いている。おそらくこちらの証言のほうがバイアスがかかっていないでしょう」
「なるほど、説得力がありますね。しかし、プラトンの作品は歴史書ではなくて創作でしょう。そうすると虚実織り交ぜるのはそんなに大罪になりますかね」
「読む人次第でしょう。読む人が創作と思って読めば問題はないんじゃないの」と長南さんが指摘した。
「法廷戦術としても神様が『彼以上に正しい人はいない』という人を死刑にしていいんですか、ということになるわね。クセノポンの引用が正しいとすると、なかなか考えたセリフと言えるわね」
橘さんは改めて憂い顔の美人を感心したように眺めた。