穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

92:二つのテラス

2020-05-05 06:43:54 | 破片

*友人の話を聞いて自分の「テラス事件」の記憶が深い忘却の深い淵から浮かび上がってきたのだが、カフカと僕のテラス事件には雲泥の差があるのに気が付いた。深刻さでは比較にならないほど僕のほうが深刻なのだ。

カフカは父の行為の原因は分かっていた。夜中に(たぶん、大声で)泣き喚いて父親を困らせた。何とかすかそうとして初めは説得していたが言うことを聞かないので、父親はとうとう激怒して深夜の寒空に下着一枚の子供を突き出したのだ。これはカフカの手紙に明瞭に書かれてることだそうで、間違えのないはっきりとした記憶が彼にはあった。カフカは言うことを聞かないで泣きじゃくったのは親を困らせようとしたので大した原因があるわけじゃないと書いているそうだ。つまり自分でも親を怒らせた責任があると分かっていたのだ。しかし、そんなことで、子供を下着一枚で夜のテラスに締め出すのはひどいじゃないか、というわけだ。事件の原因もわかっているし、はっきりと記憶に残っている。だから書いているわけだが。

 この事件はカフカの心に深い恥辱感を刻み付けた。そしてその後、父の過酷な仕打ちに遭うたびにこの「恥辱感」がよみがえってくる、というような内容らしいのだ。しかしながら、カフカの心理に強い記憶を刻み込んだが心身の発育にはまったく影響しなかったらしい。

僕の場合は全く違う。夜ちょうど寝入った頃に酔っぱらって帰ってきた父は無言で僕を布団から引きずり出してフランス窓からテラスに引き出し、二階の手すりから庭に突き落とそうとしたのだ。驚いた母が飛び出してきて止めた。父は家の中に入るとドアに鍵をかけてしまった。

僕はその時になってもまだ完全に目が覚めていなかったと思う。憶えているのは満月の夜で月がやけに大きくて気持ちの悪い赤みがかった色をしていたことだ。そのうちに夏のことで急に嫌な冷たい風が吹き出して、庭木が生き物のようにざわざわと揺れた。にわかに雲が月を覆い暗くなると、遠くで雷が鳴りだした。いきなり激しく雨が降り出したのだ。ようやくこっそりと母がテラスのドアを開けて父には内緒で家の中に入れてくれたのだ。

父は僕をテラスに引き出すあいだ、終始無言だった。だから何が父を怒らせたのか全く分からない。母にも分からないようだった。その後僕がどうしたかは記憶がない。たぶん寝床に倒れこんで前後不覚に寝入ってしまったのだろう。あの夜僕は殺されたのだ。完全に息の根を止められたのだ。君が僕を見て幽霊みたいだと思ったことは正しいのだ。

しかし、これでは君の質問に半分しか答えていないね。君は「どうして」と尋ねた。つまり理由を聞いたのだ。それを答えなければいけないのだが、僕には二十年経っても分からないのだ。質問には半分しか答えられなかったが許してくれたまえ。じつは僕もそれが知りたいのだ。しかし父本人に聞くなどと言うことは思い付きもしなかった。しかし、友人からカフカの話を聞いて手紙で聞いてみる手はあるのかな、と思いついた。しかし、実際にペンを手に取るとそんなことがすらすら書けるものではない。それで君の昔の疑問を思い出して君宛に手紙を出そうと考えたわけだ。

その後父にも自分の行為を行き過ぎたと反省している様子もあったし、カフカの手紙にも父親がカフカが病気の時に気遣う様子などを(公平に)書いているそうだが、僕の父も時には僕のことを心配してくれたこともあった。まあね、どんな人間でもいろいろな面がある。そんなことをいろいろ思い出すと面と向かって糾弾するのも難しいのだ。僕は人格と言う矛盾のない性格などと言うものは信じない。人間には、だれにでも表もあれば裏もある。ただ父親はそれが激しすぎるのだ。しかも多くの面がある。六面体くらいはあるね。しかも、悪いことに、書かしてくれ給え、父親のサイコロは鉄火場のサイコロのように目が偏るのだ。どちらかと言えば不条理な感情の爆発が多かった。

例えば一の目が出た時には感情が激発して抑えらず冷酷非情になる。あの満月の夜はそのような彼の性格の面が露出していたのだろう。しかし僕が小学生のころには、父は僕には無関心だった。父は僕にとっては無色透明な水のような存在だった。中学に入ったころから、気が付くと時々父親が僕をすさまじい目で睨んでいることに気が付いた。たとえば、机に向かって宿題をしているね、背後を通る人の気配を感じて振り返ると、父親がすごい目で人を瞬殺しかねない目つきで見ているのだ。それも特別な理由が思いつかない。なにか悪戯をしていたとか、机の上でコップをひっくり返したとか、そういうことは一切ないのだ。父の目と言うのが特殊でね、目力というような生易しいものではない。蛇眼というか、いや邪眼か、ようするに瞬殺力のある目つきなのだ。**