穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

103:あれは論理学ではない、と気が付いてね 五月三十一日

2020-05-31 08:18:33 | 破片

 新馬券師がヘーゲル、ヘーゲルと連呼するものだからレジから憂い顔の女性哲学徒が寄ってきた。断りもなくどっかりと隣に腰を落とすと右足を左の膝の上で乗せた。彼女は左利きらしい。

 おいしそうな膝が露出したあたりに目をやりながら、ヘーゲルって読んだことある?と問いかけた。彼女はフンと馬鹿にしたように漏らしただけであった。彼女をからかうことをあきらめて橘氏は続けた。改めて読んでみてね、彼のいう論理学は論理学じゃないということに気が付きました。「あれは俗にいう形而上学であり、また存在論なんですよ。そうするとなぜそうなるんだなんて考えて頭を悩ます必要がなくなる」
「どういうことなの」
「きっかけはね、昔どこかで、たしかバートランド・ラッセルがどこかで書いていたと思うんだが、ヘーゲルの哲学は彼の神秘体験が元になっているのではないかというのだ。そうすれば、論理学という本のタイトルを素人分かりしては間違えるかもしれない。


「形而上学なら根拠はなんだ、とか、どうしてそんなことが言えるんだとか憤慨しなくてもいい。定義も必要ないし、公理も必要ない。ヘーゲルが唾棄する悟性的分析は必要ではない。そうかい、そうかい、と受け流せばいい。そうしてそんなら次はどうなるの、と手品を見るように見ていればいい」
「手品の出来栄えだけが問題になるのね」と長南さんが総括した。「それで彼の神秘体験は調べたの」
「うん、彼には死ぬまでフリーメイソンの会員だったという疑念があった。プロイセンの秘密警察にも疑問を持たれていたらしい。ヘーゲルが兄事したゲーテはフリーメイソンだったしね。その入会儀式で、イニシエイションというのだが、神秘体験をさせるものだったらしい。しかし、これには確証がない。それでまた考えた。自分が神秘体験をしなくても同時代人か先人で神秘体験をした人の思想とか経験に影響をうけたという可能性があるのではないかと思ったのさ」


彼女は意外に鋭いな、と馬券師は内心で感心した。「なんか無底とか言った人がいたんじゃない」と彼女は第二弾を繰り出したからである。彼はますます彼女を見直した。「たしか靴屋の息子だとかいう人じゃなかったかしら」
「そうヤコーブ・ベーメといってね、まさにヘーゲルが非常に評価した哲学者ですよ」
「たしか、ドイツ最初の哲学者と言われている人でしょう」
「まさにその人ですよ。ヘーゲルの本に哲学史というのがあるが、ベーメについてはカントと同じくらいの紙数を使って紹介している」
じゃあ、どうして「論理学」なんてタイトルをつけたのかしら、と若き哲学徒は疑問を口にした。
さあねえ、世界というか、いや存在の仕組みとかそういう意味で使ったんじゃないのかな、と元パチプロは答えた。ギリシャ語のロゴスにはそういう意味もあるからね、と。

「それでね、長南さん、あなたは実にするどく核心をついている。僕もベーメのことに気が付いて調べたらね、驚くほどヘーゲルの論理学はベーメの思想に似ている。ベーメの思想は最初に全部(オール、英語で言うとね)と無(ナッシング)がある。最初というのは説明の都合でベーメの思想にははじめも終わりもない、つまり円環をなしている」

「ウロボロスのようにね」と若き女性哲学徒は補足した。
ベーメのいうオールとナッシングはヘーゲルの論理学の冒頭の有論のSein(いまだ無規定の存在全体すなわちAll)とNichts(Nothinng)に対応する。