そりゃ大変ですね、と第九が言うと「まるで鉄板で出来た狭い檻の中で拳銃をぶっ放したようなものですよ。耳を聾する騒音のなかにいるようなものです」
しかし、鉄板で囲われているなら騒音は外には漏れないでしょう、と第九が混ぜ返すと
「それが実際には安マンションの薄い壁なんですから、近所からは苦情が絶えないんですよ」
「それは大変だ」と同情した。「パチンコには行かないとかおっしゃってましたよね」と思い出したように第九が聞くと
「勿論です。善良な市民ですからね。自粛要請を守らない店を探して朝から行列するようなことはしません」というと橘氏はコップの水を一気にあおり、はーっ、と農夫が熱いお茶を飲んだ後のように大きなため息をついた。
「あなたはいいな、専業主夫にはコロナ失業というのはないのでしょう」
「それはそうなんですがね、彼女が在宅勤務で一日中家にいるので、かえって大変です」
「なるほどね、わたしもパチンコができないから馬券師に戻ろうかと思ったんですがね」
「へえ」と第九は改めて彼の多能ぶりに驚いた。「あれはいろいろデータを調べたりするのでしょう。毎日忙しいでしょう」
「ところが、貴方、平日はすることがないんですよ」
「データの下調べはしないんですか」と競馬のことは詳しくない第九が聞くと
「私はオッズ派でね、当日のオッズが出ないことにはすることがないんです」
「というと大穴狙いですか」
「そういうことでもないが、とにかく週末だけが忙しくてね、月曜から金曜まではすることがないのです。そして家の中では鉄板の囲いの中で一日中太鼓を叩くみたいに子供たちがけんかをする、女房は金切声で怒鳴り散らす、進退窮まって私は朝飯を食うと家を飛び出すんですよ」
「公園にでも行くんですか」と第九は暢気な質問を投げかけた。
「いや、貴方、ヘーゲルの本を持って一日中山手線に乗っているので」
第九が首をひねっているのを見て「いやね、学生時代にやはり狭くて周りが一日中五月蠅い下宿にいた時の習慣を思い出してね。山手線に乗って時間をつぶしたものです。なにか読む文庫本なんか持ってね。それを思い出してね、山手線に逃避したわけで」
「それは安い消暇法ですね」と第九は感心した。
「都県をまたいで移動してはいけないというんでしょう。山手線しかありませんよ。中央線だと市川だともう千葉県だしね、西に行けばうっかりしていると山梨県に入っちゃう。それにコロナ騒ぎで電車はがら空きだしね。座りくたびれれば駅で降りて腰を伸ばす。エキナカの売店でスナックを買ったりドリンクを買ったりして一息いれればいい」
「うまいことを考えましたね。山手線は何回りくらいするんですか」
彼は馬鹿なことを聞いちゃいけないというように、「それはまちまちですよ。べつに規則を決めて乗るわけじゃない」と答えたのである。
「それでどうしてヘーゲルの本なんですか」と第九はまた愚問を投げかけたのである。